2016年12月31日土曜日

2016-1231

毎年大晦日に総括的文章を書こうと思ってたけど、最後にやったのは2012年だった。黄金町へ来てから一度も書いてなかった事になる。今年は辛いこと多かったし、わざわざ改めてそれを思い出しても仕方のないことだ。だがそれらの辛い経験はある意味、もう一度原点に立ち返って自分の歩んできた道を振り返り、整理して来年に向かって行くための要因となるはずだ。
中国、成都のプロジェクトは長期的な視野で取り組んで行こうと思う。春に行く事になっているが、現在もスケジュール調整中で、行く前になにを準備すべきか、行ったらなにをリサーチするべきかを把握しておく必要がある。前回とは違って制作が目的ではなく、リサーチのためのレジデンスになるだろう。また今回、成都側から来た急な要望もある意味、こちらの企画への優柔不断さに見切りを付けてくれたきっかけとなった。いずれにせよ、本作の内容はまた時期を見て明確にどこかへ明記する。
さらに日本でのハナシだが、もう一度ホラー映画を作りたくなってきた。これは戦略的意味合いもある。意義のある独創的ホラーを作ればまた米国での上映、DVDなどの展開はできるかもしれない。「吸血」から学んだ様々な失点、また発展できる要素は発展させ作品に取り入れたい。日本での上映、配給等も考えられなくない。今度こそ80分以上の作品にして単館での上映を図る。ホラー、といってもアートファンタジーホラー?とかだろうけれど。

3月のアップリンクの上映会はこれまでの歩みを昇華し、次のステップへ行くための意味合いが込められている。「吸血」も「変異之夢」もえらく変わった映画だ。ようはオレにしか作れないものだ。そういう意味でやって良かった。生きていくのは辛い、が、量産型の映画を作る映画作家になるつもりはさらさらないんだから。辛いのは、当たり前なのだ。批評家がどう判断しようとそれはオレには大して関係ない。
いろいろあった年だが、通り抜けられて本当に良かった。
来年の自分へのまた新しい展開を願い、睨みつつ、恒例の一言
~来年こそ世界中がもっと良い年になりますように! 良いお年を!

2016年12月26日月曜日

「Kumagusuku~Attraction」体験

「Kumagusuku~Attraction」体験
今日は最終日のサイトA企画展示会「Kumagusuku~Attraction」をはじめてお客として見てきた。はじめて、というのは実際はウソでオープニングでも客だったが、人が多かったので集中度に欠けてたのだ。

初冬の、雨があまり降らない時期に行われたのはまず正しかったと思う。空間表現の傾向が強い展示会は大抵天気が良いほうが気分良く伝わってくる気がするから。入ってすぐのオブジェのような”装置”の配置のされ方も建物の構造との関係性が丁寧に考えられており、空間調和が十分成立されている気がした。三つの”装置”には黄金町の三人の異なるアーティストの作品が一点ずつ置かれている。絵画、オブジェ、映像という異なる存在は、これらもまた均一な空気を乱さないカタチで一見、空間との静謐な関係性を保持しているように伺える。が、その印象は実際には外から得るもので、一度その”装置”に身を据えて作品を「体験」すると、周囲の空間性の穏やかさとはまったく異なる時空が放射されていることに気がつかされる。それらは作品の様々な面、素材、制作方法、意図、さらには作家本人の苦悩や人格にいたるまで様々な次元で考えさせられる。それは否が応にも目の前にあり、一種の圧迫感さえ覚えるほどだ。これはまさに作品を「体験」する”装置”に他ならなかった。映画館で映画を見ている体験と少し似ているかもしれない。だが、さらにハッとさせられるのは、見ているこちら側の人間だけが勝手な感受性で感じている、ということに気付かされる、ということだ。目の前の作品は、少なくとも三つのうち二つは、まったく微動だにしない。この作品と観客(観察者)という関係性からようやく「なぜ人は作品を見るのか?見ようとするのか?」などの根源的な疑問に「体験的に」立ち返ることができる。これはおそらく企画者、または制作者の本来の意図とは違った方向性なのだろう。あるいは当の作家本人らもそこまで考えてもみない事かもしれない。だが、アートとは本来そういう存在である、ということをこれが無制御な”装置”であるが故、自ずと語りかけてくる・・。

”装置”制作者である矢津氏は同じ発想で京都でホステルを経営している。そちらの記録映像も上映されており、それを見た印象は、ちょっと行って一日でも「体験」したくなる、感じ良いものになっている。正直言って、当初宿泊費が少し高いかな?とも思った、が、今日の体験を経てまったくそうではない事に気がつかされた。
なぜ人は作品を見るのか?またアート観察者は一体どこまで深く作品に関与するべきなのか?という根源的な問題を考えさせられ、同時にアートや文化に無関心な社会にこの「体験」は必要かもしれない、とまで思わせてくれた。矢津氏の今後の活動に期待したい。
https://www.koganecho.net/…/even…/event-exhibition-1999.html

2016年7月26日火曜日

恋愛観一考

恋愛観で価値観の違う人と話すほど時間と労力の無駄なことはない。

いまドイツから来てるスウェーデン人アーティストのイーダ氏とは落ち着いて話せた。久しぶりに同じ目線で話せた気がした(話したといってもこっちは聞き役だったのだが・・)。
いずれにせよオレの価値観はおかしいのかもしれないけど、おかしいのは表現者ならではの性(さが)だと思ってる。
いわゆる世間を騒がす色恋沙汰も、決まりきったことなど本来ないはずのに、世間はなにかと型にはめようとしたり、勝手な想像でありもしない物語を作って笑いのネタにする。

たかが人の問題なのにな・・・ そもそも人の感情に他人がどう介入できるというんだろう?なにがそんなに面白いんだろうか?さっぱり判らない。 単純に、子供じみた浅ましさしか、伺えない。

そしてどういうワケか少し前まで気になる子はいたけど、いまはもう誰のことも思わなくなった。
なんというか、一帯に何かと餓鬼っぽい臭気が漂っている気がしてならない。これは単にオレが落ち着いた、格好つけない本来人と人同士の共有を求めているからなんだろうと思う。

ただ、それを求めるには何年も孤独な道を選んでしまった汚点のようなものがあるにはあるが・・

ま、今後どんな出会いがあるのか、それが楽しみだ(笑)

2016年5月23日月曜日

ブログ名「円盤亀」を「形而下生活」へ

ブログ名「円盤亀」を「形而下生活」へ変更した。
形而下生活はもともとHPのコーナーの名前で、もっと遡ると最後の8ミリ作品である「軽事情生活」の頃考えた名前だった。なんにせよ、円盤亀は好きなタイトルだったけど、ちょっと気分を変えるため。

2016年4月13日水曜日

最近…

治ったと思った風邪をぶり返している。ここのところの停滞は充電期間であるとFBなどで何度か書いた。実際この数週間、個人面、仕事面共に人間関係で負の驚愕、失意、失望があって改めて一から考えさせられる出来事が多かった。この連鎖がいつまで続くかさっぱり判らんのだが、逆にこの現象は今後の方向性を定めるための必要な事象なんだと解釈している。もう若くないから汚名挽回を実行してなにやら周囲に証明するよりももっと大事な、本来やるべき課題に真っ直ぐに向かわせるための必然現象なんだと。周囲の目や評価など気にぜず、または一般的喜びなどもあまり顧みず、与えられた仕事、そして本来目的としていた課題に取り組むための方向を定めるための必要手段なのだと。10年前なら犯した失敗や誤解を解くために時間や労力、再チャレンジなどしていただろうが、もうそんなことしている時間はないのだ。まだまだやりたい事、やっておかなければならん仕事は沢山ある。だからといって激情しながらではなくて、冷静沈着で、創ることは、なによりも楽しさがないとならん。

2016年3月12日土曜日

展覧会「黄金町レビュー」の初日を見た

展覧会「黄金町レビュー」の初日を見た。参加作家全員の個性が散りばめられ、同時に自然に調和し合った豊かな展覧会だと率直に感じた。昨年開催された成果展にも同様の感触を得たが、一年経って運営側も場数をこなしたからだろうか、今回はより色濃く、多彩な展開となっている。
個人的には椎橋作品が一番感銘を受けた。真白な小部屋の壁全面にレシート紙のような古惚けた細長の紙が貼られ、ボンヤリ掠れたカーボンインクがなにやら会話を映し出している。床には居心地悪い角度でモニターが置かれ、余命間も無い人の映像が流れている。タンパクで朴訥なナレーションはえらく下手、だが、またそれもその部屋の醸し出す密度と調和している。作品が取り上げたテーマ自体は決して珍しい類ではない、が、椎橋氏の紡ぎ出す全体の空間密度とテーマとの駆け引きは、計算され、独特な観察眼と知性を微細に感じさせた。
韓国の映像作家ユ・ソンジュの短編映画も短い時間の中でユニークな展開を見せていた。前半はロベール・ブレッソンの「スリ」を彷彿とさせ、人工的なズーミングやパンも意図したものなのか、不思議で軽快な映画運動で展開する。鈴のインサートショットがまた良い。後半部の書籍と言葉遊びの発想も、インスタレーションの展開も加味されており、大変工夫豊かで上手く作られていた。
他にもノイジー映像をレースでオブラートして自身の内部に潜む屈折感を日記部屋?のような空間で表した台湾のヤン・ユンシュン作品も楽しめたし、片岡純也+岩竹理恵のペアの作風世界も一見別世界のようで交差し合っているようにも伺えた。二人は異なる媒介でありながら同じ日常を見ているのだろうか…。またスザンヌ・ムーニーの光と影の陰陽をとらえた漠とした被写体としての黄金町風景。葉栗翠の錆びて汚れきった街の汗滴る灰汁摂りのようなコーヒーカップのぐじゅぐじゅと、その導入部を飾るやるせ無い室内の壁に描かれたカラフルな壁画。あくまでも洗練されたデザイン様式でこの街を前進するアーティスト ユーニス・ルックの拘りの神秘性。そして土偶〜巨漢女を日々延々と受胎し続ける鍛錬のアーティスト 楊珪宋の奇ッ怪で毒素たっぷりな中華サイケデリック子宮内宇宙の焼物など、他にもまだ未見な作品あるが、面白い作品群が結集している。
この展覧会は、今月21日祝日までやっている。来週末は黄金町レジデンスアーティストのオープンスタジオもありツアーも組まれている。時間のある方は是非お越し頂き、この街で作品制作に専念する芸術家たちを見に来て頂きたい。


2016年3月8日火曜日

メモ 01


映画には舞台のような場や空間の力はない。映画の力は、むしろフレーミングとかそれらを繋ぐモンタージュの構成か。グリフィスの発見は後頭葉への平面的空間形成のそれで、やがては映画において物語を伝達する役割さえ担う。エイゼンシュテインは視覚的物体認識へ直接的または逆説的に訴えかける。でもいわゆる「映画になった」っていうあの瞬間は、もっとべつの、人の記憶や体験知の奥に潜むなんらかのプリミティブな共通認識を所有する領域を刺激する。映画が面白いのは、それらが時に創り手さえ気が付かぬ瞬間にやってくる一種の不安定さでもある。

2016年1月3日日曜日

年明けて思うこと

ここ数日アーティストの人たちやそれを取り巻く環境、今後の未来などのハナシを聞いたり、それについてぼんやり考えさせられながら、やっぱオレはアートじゃなくてあくまでも映画で、(しかも一人でやってるから)じゃあ今後どういう展開に持ってくか?黄金町の環境から如何に飛躍するべきか?そんな漠然としたことがキーワードのように薄ぼんやり脳裏を巡っている。

つまりここは、アーティストへの理解とサポートはあるし、まだまだ修復、実験等しながらもそれを展開する人材や術も備わっている。それは素晴らしいことだし継続されていくべきだろう、課題は豊富にある。ただ幸か不幸か、オレは映画をやって行く事を拘り続けたい。なんというか、たとえば環境が備わっているからといってそちらへ自分のベクトルを合わすという展開もありうるだろう(たとえば映画的方法論、表現はやめて、空間アートやインスタレーションを真剣に取り組む)、それは利口な行いかもしれないし、運営側も作家として発表・紹介しやすいだろうし、理解度も増えるのかもしれない。だが、それでも頑固に映画で己を貫きたいと思っている。むろんその間に作家として多角的にアートで実験したいし、インスタレーション等のアイデアもある。が、たとえそうだとしても、もういい加減着実に映画を作る方向へもっと信念を向けなければいけないのだ。それがオレには希薄だったと思う。いい加減早くやらんと年が更に嵩んで死んでしまう。あとはオレが己の信念のボルテージを上げれば良いだけなのだ。
映画人にとってここの環境がどの程度機能しているかは未知数だ。どうしても違う畑に足を踏み入れているのではないだろうか?という懸念は否めない。むろん、ここへ来て多大な援助やサポートを受けているし、仕事としてもオレのような人間を使って頂いて心から感謝している。生活苦も駒場にいるころより確実に良くなった。 ・・いや、もしかしたらこの感覚は、単に自分の中で否が応にも育ってしまった一種の「孤独病」なのかもしれない(笑) そうだとしたら、オレはそんなもんコワかねーけどな(笑)

まずはこれまで考えた企画やアイデアを総括してひとつに絞ることが必然だ。そして脚本執筆に取り組もう。この2年の間に確実に長編映画を完成させ、3年後でも良い、絶対にそれを映画館(単館で良い)で上映させるところまで持ってかないと、これまでこの人生を生きてきたことが全て無駄に終わる。このままなにもなく死んだら、自決したのと大して変わらん。