2014年12月9日火曜日

芽は出てきたのか?

横浜、日ノ出町-黄金町へ来て一年と五ヶ月がたった。
ここへ着たばかりの頃はアートの仕事や土地、新しい分野の人々との関係性、感覚の共通性や相違などすべてが新鮮であった。黄金町バザールを海外アーティストコーディネータ、映像作家、更に看視員として2期に渡って関わってきて肝に銘じていたのは、自分の持った能力を、底辺の位置を守りつつ、できる限り貢献できるよう頑張ろう、ということだった。そういう関わり方が表現者として必然の役割であると思っていたし、今でもその志は一切変わっていない。

だが2013終えた頃より更にいま、2014を終え、祭が過ぎ去って感じる事は、オレは一人の作家=表現者である、ということだ。そいつを一旦己の奥深いところまで押進めてこの土地のスパイスと一緒に醸造させ、なにが生まれ、どう発展させられるか? いま、ふつふつと己の中でなにかが始まってきているを感じる。バザール期間中は様々な人との交流などで社交性は活性化できるものの、一人で考える時間というものがあまり得られなかった。バザール2014前は、対NPOやアート事業への貢献という課題を踏まえた己の立ち居地やら必然性などが頭にあったけど、「作品」という観念があまりなかったように思う。だが、最近になっていつも悩ませていた映像的メタファーの問題は、ようやく解けてきたように思う。オレにとってのこの土地の意味、またここで映像化したいモノ、又は映像化すべき要素とはなんなのか?

インディペンデント映画制作は商業映画とは違い、作家性/作家主義を貫ける分野だ。だから何をやろうと勝手なワケだ。長編作品の場合、自分のやりたいことはやりつつ商業的にもそこそこ売れるモノを作る。その板ばさみで悩むのは好きだ。だからオレは次の映画作品は立派に長篇の長さ(1時間20分以上)にするし、吸血ほどアヴァンギャルドなアプローチはしない。そして吸血は世界に行ったんだから、この作品は更にデカイ世界を目指すのだ、という男の子的野望は堅持しつつ、さらにこの歳まで積んできた人生経験も活かして志の高い作品を作ろうと思っている。

2014年9月30日火曜日

アーティストインレジデンスを考えている

黄金町、それからたとえばドイツのアーティスト/キュレータのマイケル・クレスと出会ってレジデンスの意味合いを意識して考え始めている。たとえばドイツへ行って作品制作へ展開させるための準備と、その準備のための根本的且つ主体的な「構え」みたいなものは、どう己から発掘するべきか?~を真面目に取り組みたい。

「なぜオレはこの国、街へ赴くのか?」
「オレとの関係性はなんなのか?」

作家(/アーティスト)の主体性と文化的社会への「還元」は本来一切関連性ないものだろうと思う。だからそこへ赴く以上、それは言ってみれば「仕事」なのだが、同時に「遊び」がないと官僚的になるばかりだ・・。
最近、黄金町に滞在していたアーティストが、バザール参加作品を完成せずして街を諸事情で出て行ったのだが、そういう可能性は誰にでも起こり得る問題なのだ。作家としてレジデンスに属している以上、なんらかの展開を策してその成果を還元する作品を産み出さなければならない、とさえ認識していれば、たとえば体制側や出資側との構えや立ち居地みたいなものも見えてくると思うのだが・・。 つまり作家は、その瀬戸際で如何に取っ組み合うかをイメージして創造活動に徹するか、更に状況を楽しむか、さえ掌握すれば、さほどの苦悩はなかろうと思う。むろん同時にそれとは全く別口で吐露する環境も確保しなければならない作家も当然ながらいるだろう~かくいうオレもその一人だと思う。
思想の違いや言論は、民主主義が機能している以上、守らなければならない。単純に税金を使っているからアーティストは還元しなければならない、とか、そういうハナシではなく、民主主義の活性化のためにアーティスト導入や街づくりが進行しているはずなのだ。だから極端かもしれないが、アーティストは、聞こえは悪いけど(!)、政治家(=市民代表)のごとくその社会文化の機能性を広げられるところまで広げなくてはならないし、地域住民や関連団体、そして官僚や役人らと協議、協力しながら発展させていくものなのだろう。そして、その行為そのものが法やそれを堅持するはずの民主主義を豊かにするはずなのだ。でなければ、一体何のためのアーティストインレジデンスなんだろう!? という疑問が、自ずと浮上してしまう。 現実問題、その認識が低いため市民権を得ているのかさえ疑問だ。「資本主義国家」なのだから「税金の無駄遣いだ」とすぐに言われてしまう。そういう民意の低さは民主主義が機能し損なっている証拠に他ならない。

2014年5月12日月曜日

20年

今年の暮れで母親を失って20年になる。早いものでそんな長いあいだ会っていないのだな。そんな時、古い友人の母が他界したとの連絡があり、それから数時間後べつの知人から子供が生まれた、との連絡も。生命の流れがたゆたう渦中に様々な出来事も成されている。だがまあ出来事とはいうが、人は自然の観察者であるが故のもので、観察者たるもの脳という別形態の宇宙があるがため。種々雑多な命の成り立ちなどは渦中にある物にとっては関連し合ってはいても感傷的にはあまり関係ないものだろう。宇宙に存在する雲上のガスや死んで行く恒星、発展途上の銀河や星団の写真を見るたび生命の形態が顕微鏡の下の実験液に浸され変化していく物質となんら変わらないように思う。違うのは時間とか大きさだが、どちらにせよ同じ土台に属す物同士に変わらない。命における3次元での課題とは、実験液のような宇宙に投げ出された変化、いわばその発展と記憶の成り立ちといって過言ないのではなかろうか。そういう意味ではオレ達の腐敗しきった社会の形態もその宇宙に属するはずなのだが。
いずれにせよオレの母親の記憶とは、亡くなった頃、母を題材にした本を書いたことか。手書きで書いたそれを印刷し、製本して生前親しかった人に冊子を配ったりした。なんというかそれが終わって暫くして母のことを話すことも思うことも封じてしまった。長いあいだ、10年はあったろうか。それが終わって少し思い出すようになると張り詰めていた何かが緩んで日々の生活が苦しくなっていった。何か弱っていくような。だからってなにが悪いということもなく、すべては体験であることに他ならないのだが。後悔はない。だが、オレはどこか欠けちまってるよな、とも思わないでもないし、その洞察は至極正しいかろうと・・。父親を失ってもうすぐ2年だが、母を失ってからの壮絶な生活を思うと彼女の影響は凄かったワケだ。若くして大成した人だったため周りの家族は堕落し振り回される、という聞いたことのある構図だ。今はじつに良い体験をさせてもらっている。オレも大人になったし親も他の未成熟な人間となんら変わりはなかったということは良く理解できている、と。

・・なんかこういう文章からだと想像し難いだろうが母とは生前とても仲が良く一番の理解者だったことも間違いない。今生きていたらどうオレを支えてくれたのか?と想像する事はよくある。だが、いない、のだ。そう、それが故のことだったのだろう。考えたところで始まらない。

いずれにせよ、その世間知らずだった母親だが、ここ数日夢に良く出てきていた。特別な夢の印象もないのだが。あの世がどうのこうの、という話は置いておいて記憶、あるいは脳みその中でどんな脳波が刺激しあっているのか?その一種小宇宙的メカニズムは人が目覚めたおりになにを示唆するのか? ・・いやいや、ありゃただの夢なのだと。そんな母の日であった。

2014年4月26日土曜日

いまのところの予定

数ヶ月前だったか、黄金町バザール2014のための公募作品を考えたが、纏まりきらずのまま提出してしまった。纏まりきらずというのはいわば、極となるはずのイメージが湧かず、その周りを囲むイメージばかりが浮かんで、本来ならそれら各イメージをひとつのカタチに凝縮させる必要があった。が、そのための醸造時間が足りなかったワケだ。 しかし幸いにも、それから数ヶ月してレジデンスのための出展案が設けられ、そのための公募が始まった頃、「醸造された」ひとつの作品を思いついた。 で、それを応募したんだが、実際どのくらいのデキなのか、また本当にやるべく作品なのかが不明。 というか、実を言うと疲れてしまって、やる気が湧いてこない~興味を失ってしまったのだ。 結局オレはいわゆるインスタレーションを考えるアーティストではない。やる気は消沈してしまったし、お金もないから実際どうして良いか判らない、というのが現在の正直な心境。もう少し待ってればまたやる気も出てくるかもしれないんだがな・・・

今年はそれ以外に一度ポシャってしまった友人の女優との共同アート計画をこれから再考案して二人で何か面白いことができないか、企画を模索する。プロダクションやらの問題が解けたら作品としてきっと世に出せることになるだろう。そのほか今年は5月に旧作の上映と6月に宮沢賢治朗読会の演出兼映像がある。8月には現代音楽の劇中映像があり、それ以外に今年も黄金町バザールのコーディネータとドキュメント映像が控えている。6月までの予定がたっていないのでそれまでが現状、かなり苦しいが、なんとか潜り抜けて辿りつくしかない。

2014年3月13日木曜日

未来にあるはずの・・

未来にあるはずの次回作をどう策るか、これが問題のはずなのになんか別のことを考えてるワケだ。オレが何故この街にいるのか、もっと真剣にならんとならん、か? いや、もう何もかも行っちまったんだと思う。架空のなんかを探ってキャメラの後ろで祈らなきゃならんのか?? なんかが馬鹿げてるぜ。
時間ばかり過ぎて忘れた頃になにかが始まる。

なんにせよ、途中まで書いて年が超えてしまった、昨年暮れの文章。いまは2014年。

振り返って今年(去年)は一年の中に一年が二つ入ってるような、とんでもなく様々な出来事が一杯詰まった一年だった。前半の半年はこの数年間の清算のような日々で、後半はこれからの土台作りのためのプロローグか?
プロジェクトの多さだけでなく、身辺的にもいろいろあった。たとえば3月末に患ったまさに強打撃といえよう、坐骨神経痛。ほぼひと月の間なにもすることが出来ず、とくに最初の2週間は、立つことはおろか、座ることも困難だった。ようやく立って歩き始めた5月は、家にいても殆ど立って作業するという始末。さらに7月に襲った壊滅的財政難。6月の芝居は成功したものの、仕事が完全ゼロ状態に。迷いに迷って芝居の舞台監督であった画家の吉本伊織を頼りに駒場を飛び出し、8月中旬から正式に横浜、長者町に住むこととなった。
駒場には9年いた。。

これ以上うまく描くことできず放置
しかしまあ駒場に9年か・・
駒場、最初の数年はブレることなくやってたが、半分くらいからすべて滅茶苦茶な方向へ向かって行った。だがその無茶苦茶も今となっては至極必然な毎日だったように思う。今後の未来を決めるのも過去の行いをどう伺うかによる。このブログにはイイ子ぶった事はいっさい書こうと思わない。そういうポリシーでこのブログは運営されている(笑) ま、ある意味最後の避難所なワケだ。
ましかし、きっとなんかまた始まる、そう思える、からそう思う。終わりなど、あるはずはない。