2012年12月31日月曜日

2012-1231

そんなワケで今年も終わる。出始めはなかなか良くってある程度良い年になるかなと思いきや7月に父が逝去。その後も日々の難題を潜り抜けながら今生中、指折りに厳しい11月を乗り越え、12月はどうなるかと思いきや最後に強烈アッパーを喰らい未だ足元をふら付かせながら年越しを迎えようとする厳しい状況、といえるかな。が、そんな難問だらけの我が人生に飽きてもおらず、今後も耐え忍び時に大いに楽しみながら生きていく所存。人生は実験である。不安というのは大概他人と違うから感じるもので、人と比べなきゃどうってことないことのほうが多い。いつの日か愛の本質が日々の挙動にさらに杜松さえ豊かな大樹を育てる日を夢見ながら自らをまず疑い精進する日々を貫徹したい。最近思うのは振り返ってこれまでの本質的なオレの人生とはなんだったのか?を考えること。大晦日の今日も掃除も忘れてそんなことをずっと考えては眠り考えては眠りを繰り返す。様々な人に出会い、別れ、新たに出会い、また再会して、沢山の人々に支えられてきた。いまは殆どすべての人との出会いに紛れもない感謝感じることができる。苦しかった日々こそ宝なんだと自然に感じ、また穏やかで豊かな自信さえ覚える。頭がおかしくなったかと思うがべつにまったくそんなこともなく、自然とそう思える。これからどうまた変貌していくのか?年を重ねるごとに一日も一年も早く感じるようになり、来年も半歩くらいしか成長していなかったら、それもそれまでだろう。が、来年こそまた面白く発展のある年だと信じて本年を締めくくりたい。
なんにせよ、皆さま今年もありがとうございました。来年もまたよろしくお願い申し上げます。恒例ですが、来年こそ世界中がもっと良い年になりますように!皆さま良いお年を!

2012年12月27日木曜日

観劇体験

今年のブログは結局ふたつかい、、。参った。やっぱツイッター、フェイスブックでめっきり怠け者になってしまった。そんなワケで31日のブログの前に短くてもイイから一本やっとくか。でもヘタするとこれが今年最後にもなり兼ねないが。
今年は、これまでの人生で~というとえらい大袈裟だが、なにが自分の中で変ったかというと、やはりこれまでになく芝居を沢山見たってこと。沢山といっても好きな人に比べたらまったくゼロに等しいんだが、それでもホントに見て、新鮮な体験をさせてもらえた。そういうオレが今年一年で見た芝居で印象に残ったのは、劇団黒テント「青べか物語」、ナイロン100℃「百年の秘密」、月影番外地「くじけまみれ」の三作だろうか。また極北的存在として鴎座「霊戯」は忘れてはならない。さらにスケールのでかさではエドワードボンド「戦争戯曲集」第一部と第二部は凄まじい。来年自分も芝居めいた事をするためか、たまたまなんだろうが戯曲/言葉/空間みたいな大切さを体感しそれを意識できたことも重要だといえる。いずれにせよどの作品も空間としての戯曲、言葉としての戯曲という演劇の本質的重厚さ、のような意味を至極感じさせられた。
ひとつ上げると、「百年の秘密」はより映画的な要素があるような気がしたし、判りやすさも秀でていた。なんというか一種技巧的に観客の心を掴んで感情移入させようとする。こっちは判っていても悪役に対して憤りを感じ、そのまま罠に引きずり込まれ、最後には気持ち良く感動を覚えさせてくれた。なんか東映のベタ映画がセンス良く生まれ変ったような感じ、といったら良いんだろうか(笑)?そういう意味もあって「祈りと怪物」を楽しみに観に行った。書くと長くなるから控えるけど、丁寧さや慎重さは「百年の秘密」の方があったように思えたが、こちらもダークな大作で楽しめた~4時間まったく長く感じなかった。コンセプトやら比喩やらいろいろあるんだろうけど、ケラリーノ戯曲は会話のニュートラルな深みが才極まっていてそこが魅力なんだ、ということにやっと気付かされた。
人間幾つになっても学ぶことがあり、それがまた喜びでもある。今年一年の観劇体験は来年からの自分の活動に影響あること間違いなし。

2012年7月30日月曜日

親父の死

7月19日、父逝去。
ほんの数分遅れで死に目に会うことはできなかった。さっきまで生きていた親父は触るとまだ常温で血色も良く見えた。いつも見舞いに行くと浅い眠りに入ってるその姿はまったく変わらず、こちらの呼びかけに直ぐにでも目を覚ましてくれそうだった。その、まるで夢でも見ているかのような感覚を捨てきれず、親父を呼んだが、むろん目を開けてくれることはなかった。 
20年近く前、母を亡くした時の死ぬ寸前の深く、長く、そして大きな間をおいた尊い息遣いはいまも忘れることはできない・・。抜け殻となった両者に共通して痛感したことは、オレたちはみな「生き物」である、ということ。
親父の遺体は病院の霊安室へ運ばれ、明け方になって兄が訪れるまでの数時間、ずっと永眠した親父と共にいた。いろんな記憶が蘇り、何度か声をかけた。半身不随の辛い毎日を生き、さらに遡って自ら選んだ数年間の孤独生活を歩んできた親父は、本当に遣り切ったような清々しい表情をしていた。正直、美しくさえ見えた・・。 むろん親父は世間で言われる成功者ではない。むしろ完全に失敗者の方だ。だが、誰にそれを審判できよう?親父の生き様を知っているのは他でもない親父自身なのだから。この世のものさしなど死者に通用しない。勝利するのはこの世の道理を貫いた者なのだと、その親父の死顔は微笑みながらオレに語ってくれた。

いま一週間が過ぎて自分の日常がさほど以前と変わらないのは親父が施設暮らしをしていたからで、だがそれでも脳裏に容姿や共に暮らした日々が浮かんでは消える。江戸っ子堅気のしゃべり方とかさ・・。ああいう喋りは文化なんだと、いまさらながら貴重に思う。 死んだなんて、とても思えない。長い旅にでも出たんだと。。

親父が死んだ日の開けた朝陽はまるで天国からお迎えが着たように眩しくてとても斬新な光だった。 さらば、オヤジさん、まあまた会おうぜ。 これまで、本当に、、ありがとう。

2012年2月22日水曜日

ボンド戦争戯曲集第一部二部


2月16日(木)エドワードボンド戦争戯曲集第一部と二部を観劇。
去年5月に座高円寺劇場創造アカデミー1期生がやった公演の再演で今回は座高円寺劇場創造アカデミー2期生のもの。印象としては前回よりも美術が凝った(予算が増えた?)感じで一部がより、色とりどりになっていた。演出家の生田氏の舞台は前回と今回しか見たことがない。一部と二部とではどうしても役者の力量の差みたいなものを感じてしまったが、それは今後、彼ら各々の活動表現の課題となるだろうと思う。客席側からは皆芝居に真面目に取り組んでいる姿がとても一途に見えた。またそういう志を持った人間が集まった場だからこそ、この戯曲も試みられるのだ、と思った。ボンドのスケールは云ってみれば、現代の「イリアス」といっても過言じゃないのかもしれない。戦争という題材を全人類規模の社会構造として一括りにして一から描いている。その彼の真摯な姿勢と問題意識は商業を目的とした芝居には本質的に合わない。故に大手メディアに汚染されたこの島国の思考回路に如何にこの戯曲が訴え得るのか? いかなる状況でも発信することがまず第一であるとして、最近脳裏に良く浮かぶのは、東京という場において、オレたちはコントラストの一点を一点を搾り落としているんだ、というイメージ。滴のようなハイコントラストの対比色を、劇場という場においてなんとか搾り落としている、そんなようなことを良く考える。。。
演出に関して思ったのは一部はハイコントラスト、二部は始まりから終りまでグレートーンのようだった。生田氏のその多彩な表現力には感銘したし、(佐藤)信さんの缶詰に立って演説するあのスタイルも、やがて時代がすぎて缶詰が小さな希望の緑に変わるあの描写は、作品全体の願いなんだろうと思った。どんよりした灰色から光を携えた緑が生まれる、あれは人類の真摯な願い。演説のような胡散臭いプロパガンダを人類は越えて一人ひとりが願い、育まなければならない、そんな純真なメッセージをボンドは抱いているのかもしれない・・・!
いずれにせよ、この戯曲は全部で3部あるということで、必ず第三部も上演してもらわなければならない。贅沢を言えば、次回は生田版、佐藤版の第三部を見てみたいと思った。演出家同士の"バトル"なら、観客はなんの被害もないだろうからさ(笑)。