2011年1月3日月曜日

2011

2011年。恒例の年末書き込みはすっかり頓挫。ま、今年やるとして(!)、早速新年の最初の書き込み。
芸術のある重要な側面として、やはり、作家とはあらゆる固定観念を突き破るための行為として芸術を選択したとすること。世間一般の感性とは一種の集団圧力の価値観でしかない。それはつまり政治的なんだ。芸術は政治ではあってならない。だからこそたとえなんといわれようと自分が研究して信じた問題を作品化して社会に提示するべきなんだと、。
あたりまえだが、これがなかなかでき兼ねているのが現状であると思う。
世の中には2段階のマインドコントロールがあって、まずは宗教勧誘をはじめとした強迫観念性マインドコントロール。正常な心理だと考えられない得意な状態をも信じて受け入れてしまう。そしてもうひとつは居心地の良さのマインドコントロール。安定した生活環境を得るために固定化、あるいは流動化する社会の常識に合わせようとする価値観への執着。
この二つの価値観を捨て、では、人はどこへ行くべきなのか?
芸術はある一面として、常にこの問題を掲げていなければならない、と絶対に思う。マスメディアが本来の役目を失っている現状で、芸術までもが権力と手を結んだら、民主主義は終わる。自由とは「今」であり、それは掴みようのないものでありながら、常にその只中に在る。政治的問題と対峙したとき、「自由」こそ芸術が持った最大の武器であるとオレは思う。「大審問官」の問題もこれだった。すべての価値観を否定して常に現状と対峙することこそ、自由である、ということをもっと実現、実証して行かなければ、権力の思うように操られてしまう。
タイムマシンの発明は自由な時間旅行ではなく「絶対統制」そのものである。