2011年12月31日土曜日

2011-1231

あれやこれやで展開早かった年だなと、思う本年。振り返ってみるといろいろ考えさせてくれる年だった。去年の大晦日ブログを休んでしまったことがついこないだのように感じる。じつは今、風邪気味と治りかけてた腰痛が少し悪化してあまり外へ出る気になれず、少し食べては横になるのを一昨日あたりから繰り返している。読みかけの本が沢山あるのでそれを読みながら年越しを迎えることになるだろう。うちはテレビがないんだが、たったそれだけのことで大晦日の雰囲気も正月の雰囲気も味わえない。世間が騒ぐ2012がようやくやって来たってのにさ(笑)

それにしても311を感慨深く振り返る、みたいな事は書かないまでも、放射能に関する恐怖が蔓延りすぎているんではないか?と思うのは辞さない。10年以上年間3万人を超す自殺者を出す社会の成り立ちやら、食品に含まれてる身体に良くない化合物やら、物があるのに不思議と浮上する貧しさの問題など、数えれば周りに沢山の死をも招きかねない不合理が平然と交差し、いつでもオレたちの首を絞める準備ができているかのようなワケなのに・・。ひと昔前は原発も放射能もこれらの問題と同程度な扱われ方をされていたってのに、いったん身の危険を感じるとやたら騒ぎ立てるその姿勢は何なんだと、悪いが逆に言いたくもなる。もちろん問題を軽視したいわけでは決してないんだが・・。 いずれにせよ、すべての始まりは他のやつらより蓄えたいとか上に立ちたいとかいう生き物の尊大な馬鹿さ加減のために形成されてしまっているそれに尽きるんだろう。
そんなワケで2012は終焉の年でも、なにか新しい人類規模の幕開けでもなく、一人ひとりが自発的に気づき始める年になるべきなんだろうと、思うワケだ。とりあえずその漠然とした「自発性」とは何ぜよ?と自問しながら新年を迎えようかなと・・。ちなみに来年のプランはあり過ぎてすべてできないことは明白だが、それでも頑張ろう。

では来年、人々が今よりはるかに幸せになりますように!
あと1時間弱、皆様良いお年を!

2011年11月27日日曜日

終了。

「吸血 Sanguivorous」北米上映第1弾、シアタートラム「往転」と11月に控えていた二つの企画が終了。北米上映は「往転」期間中だから当然足を運ぶことはできなかったが、とりあえずは、インディペンデント映画作家としての重要な一歩だったといえる。現時点ではどのくらいの人が足を運び、評価のほどはどの程度だったのか、殆ど判らない状況。ただ上映の数週間前に映画批評を書いているRobert Smart氏からメールインタヴューを申し込まれ、それに応対したが、いまのところそれ以上の進展はない。いずれにせよ、今回の上映を運営してくれたタイドポイントの伊地知氏、さらにライヴ上映を現実のものにしてくれたジャズミュージシャンの中谷氏とE.Wilkerson氏に心から感謝すると同時にこれまで関わってくれたすべての関係者に感謝を申し上げます。
 一方、「往転」の映像制作とさらにライヴカメラマンとして出演という冗談のような大変な仕事(!)、こちらもいろいろあった。まず個人的に上演の2週間くらい前だったろうか、父親の様態が急に悪化し施設から緊急入院することになり、超多忙の中、それを応対。さらにその数週間前から激しい腰痛に苛まれ、稽古現場に多大な迷惑を掛けてしまった。まったくもって嵐のような10月、11月だった。それ以外にもこのままでは間に合わないということで急遽新PCを出演料の前借りして組み立てたりとあれやこれやの日々だった。それでもスタッフキャストの皆さまの協力のもと、なんとか初日を迎え、楽日までたどり着いた。いつまでたってもプロになりきれない自分に歯痒さを感じるも(!)、皆さんのお力がなかったらここまで来れなかったはず、改めて感謝申し上げます。。。
 「Sanguivorous」を見に来てくれたアメリカのお客様、「往転」を見に来てくれた日本のお客様に心から感謝申し上げます!

近況の報告
  • 「往転」の映像機材  おそらく今回使われた機材はこれまでの劇中映像経験の中で一番多かったんではないだろうか。殆どがバックアップ用とはいえ、ライヴと作り込み映像が交差する複雑さのためか、その膨大な映像機器類に圧倒。舞台上ではパナソニックの小型ハンディカメラだけであったが、その舞台裏では小さな部屋が埋まってしまうほどの機材、さらにそれを映し出す3台の大プロジェクターが活躍していた。むろんそれを操作するオペレーター佐藤 守氏の活躍も忘れてはならない。。。! 今回はライヴ映像もさることながら、福島の実写映像、CG、人物合成、さらに昔ながらのコマ撮り映像など、様々な映像が混入したものだった。7年前の「リア王の悲劇」同様、予算もあるため大胆な特殊撮影なども行うことができた。改めてパブリックシアターの熊谷さん、勝さんを始めとしたスタッフに感謝申し上げます。
  • 腰痛  長年使っていた椅子が夏頃から壊れ始めていた。そこでお客さん用の簡易的な折り畳みカウンターチェアでずっと作業していた。当然といえば当然だが、これが長時間座るような設計にはなっていなかった。幸い知り合いの伝手で梅ヶ丘にある整骨院に通いなんとか舞台を最後まで切り上げられた。この整骨院に通うきっかけは後日として、淡島通りからバスで梅ヶ丘、終わって徒歩で山下の世田谷線で三軒茶屋まで向かうのが今となってはもうすでに懐かしい。
  • 福島(9.8~11)  もともと福島が舞台の一場面である「往転」だが、桃が重要な役割を果たしていた。そのためいろいろ考慮して急遽福島へ桃を撮影しに行くことに決定。だが時すでに遅しでもう桃が終わる9月始めだった。それでもバス車内の映像も必要かもしれないし、現地に行ってなにか発見することもあるだろう、まずは行ってみて判断しようということで、単独で福島入り。夜行バスで午前4時前に福島駅到着。何とか時間を潰し、9時、駅構内の観光局で情報収集。桃もむろん大事だったが、同じくらい、いやそれ以上に被災地が気になっていたことは、今となってはいうまでもない。。。 一日目でなんとか最後の種の桃の撮影に成功。次の登場人物が住んでいる家の探索は二日目から。飯坂温泉の熱湯のような熱い湯で疲れきった身体を癒し、二日目、登場人物の住む家のモデルを何軒か撮影したあと再び飯坂温泉へ。熱い湯でゆっくり過ごしたあと、現地の人が薦める雑貨屋「あとりえうたかた」を尋ねてみることに。。。 店内はアンティーク系の小シャレた雑貨が並び、古風な写真が幾点か飾ってある。温泉街のため石鹸もあるが、それも欧羅巴風な無添加石鹸。どことなく田舎の温泉街とはいえない都会風がゆったりと流れていた。やがてオーナーがふっと顔出しなんとなく話し始めると、なんとそのオーナーの藤原さん、震災数週間前まで東京に住んでおり、同じ映像業界でしかもイメージフォーラム卒業生と判明。意気投合し、その日は氏の薦める宿へ泊ることに。翌日は氏の自家用車で沢山の場所を案内していただき、ご飯までご馳走して頂いた。なんとか必要な素材を収集できたのも氏のご協力あってのこと。0時出発の東京行き夜行バスに乗るところまで見送っていただき、大変ありがたいご丁寧な接待を受けた。震災、原発などの様々な情報(現地ならではのハナシ)を聞くこともできた。残念ながら、被災地へ赴くことはできなかったが、氏が震災直後から現地で取材しているドキュメンタリーの完成を心待ちする現在である。

2011年8月31日水曜日

辿る

下の7月半ばだったか(おそらく20日前後)に書いた内容より多少状況は改善している。携帯停止状況から現在はプリペイドをなんとか確保した。そのかわり自宅電話が不通となっている、が、こちらも数日以内になんとか復旧できるだろう。。。 ひと月前に比べ仕事の依頼が増えた。とは云っても、この業界特有の後払いシステムの影響で手元にはほとんど資金がない。 が、まあ、せっかく状況が上向きになってきているので、悪いこと書くのは止めとする。このまま状況が継続してくれることを願う(笑)。
こういう状況でも沢山の人たちの繋がりで助けられていることを切実に思い、感謝する今日この頃である。


近況の報告

  • 瀬戸内海ロケ(7.29-31)  某出版社の企画で瀬戸内海の島へ。ロケの内容は後日として、行った島で見た造船風景は目に残った。海岸沿いに忽然と怪物のような船底を露わにする建造中の巨大な船の骨組み、巨大な鉄板、周囲にある足場やクレーンなどの工場風景は都会ではなかなか見ることができない一種殺伐としたもので、のっぺりと油、火の粉、そして潮の粘膜が全体を覆っているかのように見えた。 そんな巨大な船も島の人間のハナシだと3ヶ月くらいで造ってしまうらしい。その速さにも驚きだが、作業員の半分以上が中国人だという現状も現代性を感ぜずにいられない。
  • 宮島(7.31)  そのロケの帰りに人生2度目の宮島へ。行く途中雨にやられるが、これも浄化の雨として、引き潮で足元まで露わになった巨大な鳥居を体現する。はじめは芝生かと思った海岸一面に咲く緑は近づいてみるとすべて海藻だった。考えてみれば満ち潮では海に隠れているのであたりまえ、といえばあたりまえだったが、驚きは隠せない。その後訪れた秀吉が建てた島の中腹に建立するお堂は、訪れる10日ほど前に見た夢の正夢となる。。。
  • シアタートラム  11月に上演される『往転-オウテン』(脚本 桑原裕子 演出 青木豪)という芝居の劇中映像をやることに。04年にやった『リア王の悲劇』でお世話になったパブリックシアターのスタッフさんらと久しぶりに仕事できることは嬉しい。これまで佐藤信さんとやってきた仕事の流れとは違うので、多少戸惑いはあるが、良い舞台効果を提供できるよう努力する。
  • 『Sanguivorous』  『吸血』北米配給が徐々にだが進行している。詳細はまた後日となるが、上映される映画館をネットで見る限りありがたいというひと言。古い館ではあるが地元では由緒ある映画館で現在でもアート映画やサイレント映画を上映している。早く情報をアップしたい。
  • 『21世紀アヴァンギャルド』  黒田企画の本作は一旦6月ごろ終了したが、現在再編集ということで作業中。ほぼ三部構成といっていいのだが、中間部が弱かった。度重なる話し合いでどうにか形になってきている。この作品でいままで知ってるつもりで実は疎かった韓国やパレスチナの歴史を勉強できて、そういう意味でも遣り甲斐のある仕事である。日本の60~70年代アンダーグラウンド史を代表するような作品になってくれると良いが、その辺は観る人らの判断に委ねるしかない。

7月半ばごろ・・

下は下書きで放っておいた文章。一月以上前のもの。多少この時から状況は変わったが。。。

5月中旬あたりから携帯が止まった。この最先端な時代に携帯が止まるとは本当にやっかいなはずだが、しかしべつの面から云ったらそれはそれで貴重な体験でもある。縛られていた感覚、あるいは文明に矯正されていた精神の一箇所が楽に解き放たれたような感覚さえ覚えている・・・。 いずれ経済的に取り戻せば復活するワケだし、いまはそれまでの猶予期間ともいえよう。もし連絡を取りたい方がいたら是非ウェブサイトに掲載された連絡先からご連絡いただきたい。
経済的にどうにも動きようのない状況が続いており、長年お世話になっているアルバイトに復帰したくても、毎日通えるだけの金銭もない。どうにか得た単発仕事も自分やサポートしている父親の介護費用にすべてが費やされるだけでやっとというワケだ。こんな状況から早く脱して日常的生活を取り戻したいが、なかなかそうさせてくれないのが現状のようだ。リーマンショック、さらに311以降、たしかに広告業をはじめとしたビジネスが衰退しており、今後オレのようなフリーでしかも厄介な男が生きていくのは、かなり至難の業といえよう・・・(笑)。なんにせよ、この状況をいかに楽しむかが仮題であって、ひとたび深く考え出したら逆効果であることは判りきっている。あとは天に任せるしかない(笑)。
とりあえず現在は初のライター業としてはじめた重厚な書き仕事をなんとかこなしている。大きな山は越えたのであとは修正案を待って地道に修正していくだけだ。次ハナシが来ているのは映像の仕事で明日打ち合わせがあり、それが決まればそれをやることになる。が、いずれにせよ、まだ未定なのでなんともいえない。決まれば後日談をまた書こうと思う。ほかは終了したはずの黒田企画が再度展開されている。すべて超低予算であることは、いうまでもない(笑)

2011年4月30日土曜日

震災あって原発あって。で、

新年ブログから早4ヶ月。もう一年の三分の一が過ぎてしまった。毎度ツイッターのせいでまったくブログが進まない。自分の現状は、どうにか取り戻したいともがいてもなかなか蟻地獄から這い出せない、そんな状況が延々と続いてる。いろんな意味で自分を見つめ直したい心境。しかしツイッターってのは軽い気持ちで呟くも後に後悔に似た心境に陥ることも多い。こっち(ブログ)は読む人は少ないし、気が変わったら削除しようが修正しようが好き勝手できるのかも。発信文章としては一番パーソナル且つ思想めいたことも書けたりできる。
映像作家としての現状はいまこの様々な諸々を通り過ぎて落ち着いて観察する自分を確保すること。この時間~体験をどう心で煎じるのか、何かが生まれるまで待つ。ツイッターやら掲示板ってのは瑣末的な表面上の自分の何かで、べつの役割の自分がやってるんだと認識している。むろんその発言の責任は自分にあるのだが。創作精神を心に染みこませるには一旦そういうモノから離れる必要があるのかもしれない。

近況の報告
  • 黒田女史とのドキュメンタリー制作  金井勝氏からの紹介で知り合った黒田氏(通称黒田女史)のドキュメンタリーのポスプロを手伝っている。ポストプロダクションアドバイザーという役割で編集その他諸々の演出的サポートを担っている。女史は足立正生の『13月』という幻の映画脚本を書いた方で、素材はその映画の誕生までの日常記録的なもの。登場人物は足立正生、金井勝、唐十郎、翠羅臼、大久保鷹、中平卓馬、などなど、かなり濃い面子。連休明けには完成予定。
  • おやじ  一年前に脳梗塞で倒れ現在右半身不随で府中の某老健施設にいる父親。金銭的にもぎりぎりでやってきたオレにとってこの状況は想像を絶する以上に過酷。が、それまで父親に抱いていた憤慨やらはある意味払拭された。あとはこの状況をどう乗り越えるか。しかし一年前オレが一日でも動くのが遅かったら確実に死んでいただろう。 ・・が、正直なところ半身不随のうえ施設という静止した場所で退屈な繰り返しの日々を送る親父を見ていると、逆に悪いことしてしまったな、とも思う。 
  • 企画書(4.27)  映像作家とはべつにディレクターということもやっている。数年前お世話になった某社へ企画書持参で行くことになった。GW明けに持参することになり、ライターの小池氏と中野で作戦を練る。

2011年1月3日月曜日

2011

2011年。恒例の年末書き込みはすっかり頓挫。ま、今年やるとして(!)、早速新年の最初の書き込み。
芸術のある重要な側面として、やはり、作家とはあらゆる固定観念を突き破るための行為として芸術を選択したとすること。世間一般の感性とは一種の集団圧力の価値観でしかない。それはつまり政治的なんだ。芸術は政治ではあってならない。だからこそたとえなんといわれようと自分が研究して信じた問題を作品化して社会に提示するべきなんだと、。
あたりまえだが、これがなかなかでき兼ねているのが現状であると思う。
世の中には2段階のマインドコントロールがあって、まずは宗教勧誘をはじめとした強迫観念性マインドコントロール。正常な心理だと考えられない得意な状態をも信じて受け入れてしまう。そしてもうひとつは居心地の良さのマインドコントロール。安定した生活環境を得るために固定化、あるいは流動化する社会の常識に合わせようとする価値観への執着。
この二つの価値観を捨て、では、人はどこへ行くべきなのか?
芸術はある一面として、常にこの問題を掲げていなければならない、と絶対に思う。マスメディアが本来の役目を失っている現状で、芸術までもが権力と手を結んだら、民主主義は終わる。自由とは「今」であり、それは掴みようのないものでありながら、常にその只中に在る。政治的問題と対峙したとき、「自由」こそ芸術が持った最大の武器であるとオレは思う。「大審問官」の問題もこれだった。すべての価値観を否定して常に現状と対峙することこそ、自由である、ということをもっと実現、実証して行かなければ、権力の思うように操られてしまう。
タイムマシンの発明は自由な時間旅行ではなく「絶対統制」そのものである。