2009年8月18日火曜日

るさんち

夏になると窓を開け、ブラインドで角度をつけて換気扇を回すのが習慣。一人住まいのアパートで、玄関を開けるとすぐ細長い台所があり、そのまますぐ部屋になる。換気扇をつけると空気の流れがブラインドの窓からす~っと流れていき、とっても涼しい。 でもむかし「リア王の悲劇」の時、稽古場で引越し先の図面を選んでると元Church of Miseryのギタリストで当時美術をやってた星さんに「玄関すぐの細長い台所は絶対やめた方がイイ」と言われ、しかしその意味判らぬまま、住んでみると確かに、彼は正しかった。とにかく通り難いわけだ、それだけでムカついたりする(笑)。 ま、それはさておき、先日いつものように窓を開けブラインドに適度な角度をつけ換気扇を回しながら電話で友人と話していると、窓の外から入ってきたのか、でっかいゴキブリがオレの左足(素足)をササッと歩きやがった。そいつを殺せなかったことが心残りの今日この頃である。。。
@ホームページに「インディペンデント宣言」という題の小宣言なるものを書こうと書き始めるも、上手く書けない。どうしてもルサンチマン的構造/文法から離れられない形式になってしまう。 そうこうしているうちに世間では映画会社がどんどん潰れていっている。この現象はまだまだ治まらないだろうし、なんらかの時代の変化に他ならないと判断する。しかし、日本映画の悲惨なところは、こういう時期に誰もその舵取りをすべき批評家なり、専門家がいないことだ。配給・宣伝と今後どういう対策でやるべきか?イベント形式にするしか映画の宣伝はもやは成り立たないのかな・・?
映画になにを託すべきなのか、・・・いや、もうそんな時代はとっくに過ぎ去ってしまったんだろう。市場原理主義に映画は骨抜きにされたのではないか。
映画は死に、浮遊霊だけが幻を生産させている。

先日、「吸血」の試写会でアップリンクの某担当者と話したとき、アンダーグラウンド映画自体もうすっかり存在しないというハナシになり、無論判っていたことだが、歯痒さは残る。採算が取れなきゃ意味がない。観客の平常心は、映画とは、その文法、その画面そのものまで汎商業的なものであって、作り手のある視点的意図など受け入れ難い感性になっている。結局、判りやすい映画を作ることしか術はない、という実態にぶつかるわけだ。そんなの明日にでもやろうと思えばできるぜ、金を俺の前に積んでくれヨ! でも商業がやってるじゃないか、と言いたいところだ。 画面の資本性、繋ぎの資本性、すべて商業映画がこつこつと作り上げてきた実績であるわけだ。そして今現在、商業がやれる一番は、有名タレントを起用することで、観客の大半はそれで満たせる、、のかな? アンダーグラウンドが駄目なのは誰が見ても美しい容姿を持った女優なりが殆ど皆無だと言うことだ。そういうのは皆、事務所に取られる。みんな有名人になりたいワケだ(笑)。ギャラを払って時間内に撮らなきゃいけない。「芸能人なんて、ありゃアレで大変だよ、アンダーグラウンドで遊びながら撮ろうぜ」なんてのん気なノリのイイ女なんてそうはいない。女はやっぱ生理的に契約好きな生き物なんだよナ。
近年の映画業界全体で言えるのは、かかり過ぎる人員、労働、費用、に対して観客動員とその方法論のあいだに計り知れない溝が出来てしまい、皆、それを見てみない振りをして誤魔化している。

映画そのものが元来、無茶な採算だったってことをハリウッドはずっと隠し続けてきたワケだ。
近年の日本のプロデューサー陣は映画を売ることより作ることで儲け、スタッフはやっとの生活か人情で関わり、監督ばかりが未だに増え続けている。

いろいろ考えるともうやめようかと思わざるを得なくなってくるよナ。いっそのことここですべてを辞めちまって、ランボーみたいに潔く、一生堅気になるのも人生ではあるワケだ。  違う人間として生まれ変わる。それもそれで人生実験として面白い。オレが映画を辞めてもべつに誰の迷惑にもならないし、逆に迷惑が半減する(笑)。何故あんな詰まらんモノで他人の時間を奪って好い気になってんのか・・。

@ここにも何度も書いてる新作脚本は現在、ゆっくり進行中。 オレは好きだけど、さて一般的には・・・?あと昔書いた長編脚本(約500字×177㌻)をいま、アニメでもイケルんじゃないかと、親しい友人に頼んで某有名アニメ会社に持って行くことになった。いまその決定稿を刷っている。アニメでやるなんて考えてもみなかったが、登場人物の設定とか考えると、実写より嫌味なく描けるし、いろんな意味で伝わりやすくなると思った。ただ、その友人の言うとおり、ハードルは高い。むろん、オレは原作・脚本で留まるつもり。気に入られたら専門家にすべて任せる。それが一番懸命だ。