2009年7月30日木曜日

怪奇/独創/作家主義/?

 『吸血』の記事がトーキングヘッズ叢書No.39に掲載された。ライターは前回も書いて下った志賀信夫さん。この他にこの作品に関していろいろな方々がコメント下さって、感謝感激である。よろしかったら→こちらから。 作品はこれからも上映するからまだまだいろいろな感想を聞けると思う。 しかし、自分ではできるだけシンプルに仕上げたつもりだったが、先日の試写のあとスタッフらが「いろんな要素があって、どこを絞って宣伝するか悩みどころ」と話すのを聞いて少し驚く。それから感じたのは女性の支持者・理解者が多いってこと。その他、年齢と性別、あたりまえだけど専門分野でハッキリ意見がわかれるようなところがあって、面白い、というか興味深いというか。。。  詩人・映像作家の鈴木志郎康さんの感想は作り手側の意図を掴んでいて、作り手の作為を逸らさず、且つ指摘するところはしている文章だった。実にありがたいし、次の作品へのなんらかの注意点にもなる。 しかし言い訳になってしまうが、『吸血』という作品のそもそもの始まり方からしていろいろあった。最初から映画一本のみ創る、ということだったらもっと違っていただろうにナ。。。


 「独創性」という言葉はずいぶん昔だが以前の作品批評の時も鈴木さんは使ってくれた。そういう言葉は単純に耳にして嬉しい、しかし同時に時代とどう兼ね合い、付き合うべきか?と突きつけられる。作家と時代との関係はおそらく作家個人にとってみれば経済的問題だ(笑)。ゴッホが良い例のように。 映画業界には、独創的過ぎてみんなから敬遠されるグリーナウェイみたいな人もいて、どうして次回作が撮れるのか不思議だけど(笑)、同時にクローネンバーグみたいな人もいる。 ところでクローネンバーグの「身体性」は、やはり70年代とかのフィルム時代のポルノ映画だろう。あの妙な色調と内臓感あふれる画面は、彼がポルノフリークだからとしか言いようがない。彼の映画が他の映画の質感と違うのはそこなんだ。

 ところで、作家性という言葉/概念のいかがわしさ、政治という概念/言葉のいかがわしさ、が、ここのところずっと、脳内で蠢く血流だ。政治のことはこのブログにあまり書かないことにしているのは、そもそものいかがわしさが原因なんだが、作家性、といういかがわしさでこのブログは常に更新されている(笑)。
 いずれにせよ、誰か/何かが社会に認められるという現象は政治的であることはたしかな事実だ、だが意外とそのカラクリは80年代以降の若者には知られていない。彼らはお上の顔色をうかがうことに安心感を覚えてしまうようだ、そう育てられたワケだ。金/生活という幻が拍車をかけ僕らの国の偏向を極端に際立たせてしまった。こんなこと、20年前にいったら共産主義者と思われるだろうが、その共産主義もいかがわしさまっしぐらだった、ということはある程度、現代人ならば認識できているはずだ。イデオロギーという死語が現存するなら、資本主義という死神がそいつらを食い漁って時代は行き場を失った。若者が目覚め、自分たち同士をハッタリでも良いから批評/評価し合わなければ、文化は死を間近にしてそのまま逝ってしまうだろう。言葉の力を必要とする、そんな時代が来たように思えてならない・・・

2009年7月16日木曜日

I know what you're thinking. "Did he fire six shots or only five?"


おととい、執筆中の脚本の山場を書き上げた。あと困難な箇所はクライマックスだろうか。書き上げて我ながらなかなかと思っているけど、こういう、オレが良いと思うものって大抵人には判ってもらえないのだナ(笑)~その確率80%、、、いやもっとかな(笑)。
しかし映画/映像なんてバカにされたものだよな、四方から「総合芸術」と勝手に刷り込まれ、学者からは2流と格され、庶民からはテレビと同等とされ(あるいは、されるべきとされ)、文法を害せば難解と称され、芸術家からは常に破壊されるがまま。 つまるところ、お前は情報以上の何者でもないのだ、とみんなが執拗に謂わんとするかのようだ。
誰も映画を理解しようと試みない。ま、研究家は少なからずはいるが・・しかしそれは古典科学者たちが光の媒介:エーテルを探求したように、無益なものかもしれない。アインシュタインのような輩が「エーテル?ないですよ」と言ったが最後、誰も言及しなくなる:そして近代科学が拓けたワケだ。
いまの映画の状態は「映画?ただの情報ですよ」と言われるがまま、大資本市場の大舞台に乗って背後関係者のご都合主義の恰好の道具として振舞っているかのようだ。

映画の単独性はやはりいまのところ、作家性という状態以上のものでは発揮されてない。タルコフスキーであろうがスピルバーグであろうが、作家の主張とはメッセージとはまた違った類のものだ。言葉に置き換えられない主張こそ映画の単独性だとオレは言いたい。
黒澤が「一生懸命赤を塗ってんのに、批評家は青じゃないという・・」というのはまさにひとつのステレオタイプの高慢な錯覚が発生しているからに他ならない。批評家と名乗る輩の主体性または目指すところとはなんだろう?沢山見たから、こう言えるとういことだけか?映画監督なり作家にとって知識なんて本来なんの価値もないということをまず頭に入れてほしいな。
だが作家の意図と映画の本性とはまた違ったところにあるともいえるだろう。

まったく、映画とは、なんて不恰好なヤツなんだろう。。。

2009年7月10日金曜日

現状・・・


ここのところ、見に行くつもりでいた芝居、うっかり上演時間勘違いしたり、急な来客などで見逃してしまうことが、何本か・・。
本棚を見渡せば、買ってそのままの本が結構ある~とりあえず、そいつらを片付けようと始めてみる。

作業現状は脚本執筆と『ファラヲ』CG制作などとあるんだが、走っても走ってもなかなか力が入らなくてちっとも前に進まない夢のように、じつにスローペース。ホン(脚本)書きの現状は箱書きの「転」の部分が「承」になってしまい(笑)、さらにシーンを追加しなくてはならなくなった。こういう時、何気に浮かんだイメージを使うか使わないかで脳内で構想(抗争?)が始まる。

「果たしてこれは、シーンとして活きるのか?
 本当に適しているか? 安易な選択ではなかろうか?」 と・・

そうこうしているうちに時が過ぎ、あっという間に〆切目前となり、ドサクサ紛れに書き上げて良しとしてまう。だが今回これだけは起こらないように配慮したい。おそらく普段から書き慣れていればこんなことはないんだろうが・・。 とにかく何事も勉強と思って、内容も然りだが、自分なりの方法論を如何に掴むか、これも大きな課題のひとつである。
つまり、ワッと湧いたイメージの直感を信じつつ、それが何故なのか、如何なる発想であったのか、そしてどう作品と結びつくべきモノなのかを把握する、じつに生理構築的作業なんだろうなと。分析するか、またはもっともらしい意味を関連付けられるかが問題だ。映画の場合、始まった途端、誰が頼んだ訳もなく自ずとルールが付随されてしまう。それを上手く壊せば天才的かもしれないが、失敗すると必ず観客は退く~ちょっとした本能とか生理的なハナシなんだが・・・。とりあえず、湧いてくるイメージと如何に遊べるか、作家の力量が問われるワケだナ。 現在、ざっと半分までできている。この2週間で全部あげられたら、第2、3稿と〆切まで練れるんだが・・。なにしろコンペモノである以上、読み手にページを捲らせることが最重要課題だ。


書き終わったら低予算自主企画のドラマを一本書きたくなってきた。ごくごく日常的な設定で、特別な作業がさほどかからない作品(!?)を1本作りたい。80分くらいの長さで。 ・・そうだな、欲を言えばじっくり演出指導して撮影に挑みたい。これがいままでどの作品でもできていない。芝居演出することに確実に餓えている。 まあ、そのまえにセルフドキュメンタリーの『Air...』があったが。これはルールなんて関係なく、やりたいようにやる。映画/政治/メディア/日常/フィクション・・・、などとキーワードがいくつか浮かぶ。時間も恐ろしく長くしたいな(笑)。 誰が見るんだろう、ハハハ