2009年6月28日日曜日

かく

昨年、大阪にて一番最初の『吸血 完全版』上映を取り仕切って頂いた俳人・花森こまさんの個人俳句誌『逸』がこのたび堂々完成し、昨日届きました。本号用の原稿を頼まれたので、俳句ではないんですが『吸血』のことを書いています。
写真右が『逸』の表紙で中央が『吸血』が掲載されてるページ。ついでに左、は関係ないんですが、いま執筆中の脚本(笑)。『逸』は日本全国の俳人から俳句を募る個人誌で今回で26号になる10年以上も続いている執念の個人誌です。一部1000円で年2回発行しているそうです。ご興味ある方は、とりあえず一度僕にメール下さい(stavrosfilm@yahoo.co.jp)。

映像作家やっててひとつ思うことは、書くってことが意外と多いってことですね。自分でも気が付かなかったけど、気分さえ乗ってれば「書くこと意外と好きかもな、オレ」と思うし、このブログもそうなんですが、べつに誰に頼まれてるわけでもないですからね・・。むろんまだ雑誌に書いたりはないけど、同人誌的な冊子なら「ドストエーフスキイ広場」でも書いてて、あれは『悪霊』についてのことだったけど、もう幾分前になります。

じつは現在、密かに(といって、もう書いてますが)単館系映画館、小劇場とかに置けるような不定期なフリーペーパーを考えてて、非商業的な映画や舞台、その他、若干の時事ネタやらアートなどの評を掲載して、とりあえず、雑誌運動しようかなと模索中・・・。つまり、ネットじゃ限界あるんじゃないかと。~つまりネットはアクセス/検索しない限り閉ざされてるメディアだから、それを打破するのはやっぱ配布しかないだろうと・・。で、売ると逆に面倒なので、映画館やら劇場に置いてもらう。これをやりたいんですね。  と、勝手に独りで決めちゃってるんだけど、まあ、面白そうに考えてくれてる輩もいるので、脳内妄想から脱皮して実現した暁にはどっかでパッとやるのも宜しいかナ・・(笑)

で、脚本執筆といえば、まあ、ああやって、書き上げたところをプリントアウトしてその後の構想/展開を練ったりしながら書いてます。思ったのはこれを書いてた当初(2年位まえ)、研究会形式にして月に2度出来たところを集まってくれた方に読むと言うのをやってたんだけど、やっぱどうしても間に合わそうとして、余計なシーンやらキャラクターを書いたり、説明的過ぎる辻褄合わせとかを今回発見。時間がたって客観視できたことで作品意図が明確になってきたって感じ、なんですナ。なんにせよ頑張りマス。

2009年6月26日金曜日

中国エーガ

今日、後半部分しか見られなかったが、李継賢(リー・チーシアン)監督の『1978年、冬』を偶然見た。とても良かった。久々に良い映画に出会った気がする。良い映画(監督)に出会うととても幸せな気分になる。李監督はこれから期待の中国の監督だな。*画像は『1978年、冬』の一場面
台湾になってしまうけど、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や楊徳昌(エドワード・ヤン)も久々に見たくなってきた。楊徳昌の『牯嶺街少年殺人事件』はいままで観た映画のベスト3(順不同)に入っているし、『恐怖分子』『恋愛時代』『カップルズ』は何度でも見直したい作品だ。侯孝賢はあまり観てないんだけど、とくに好きだったのは『冬冬の夏休み』だった。
いまふと思ったけど、香港映画やインド映画、それからアメリカ映画みたいに映画産業が盛んな国の映画、たとえば、香港の巨匠となったウォン・カーウァイの初期の映画とか観ると予算がない感じが画面にえらく映ってる。映画産業が盛んな国の映画ほど金がないとその貧乏臭さみたいのが画面に溢れて、一種がさつな撮影現場の匂いが立ち込めたように見える。またそういう国の、金のかかった映画はやはり「お金かかってます!」と言わんばかりの臭気が画面一杯、誰の目にも判るように仕上げられている。しかし一方で映画産業がそこそこの国の、大した制作費もかかっていない映画を観ると、貧乏臭さなんてつゆ知らず、キャメラが人間の内部まで浸透したような、美しさが滲み出ているような気もする・・。資本主義制度に追われた社会/人間の歪みは、やはり映画の画面に自ずと滲み出るものなのかも知れない。キャメラは透明な空気まで記録する厭らしい作為者だ。むろん、であるからこそ、映画は芸術であることを諦め切れない。つまり、生意気なこと言ってしまえば、日本映画の現状は、やはり醜い。日本映画が万が一再生した暁にはいま現状で作られている殆どの映画は残らないと、敢えて断言する。文化的恥じとしては充分残るだろうが。「なんでこんなもんに大金かけてるの!?」「お金儲けのため」「そんなに儲かったの?」「べつに・・」と言う声が聞こえてくるのは、オレだけじゃない筈だと思うんだが・・(笑)。
日本映画よ、一度死んでくれ! 誰の為でもなく、自身の為に

2009年6月25日木曜日

夏らしく

ようやく夏らしくなってきた。
梅雨が明けたら本格的に熱くなる、ま、いつものことなんだが。人間の生きる寿命なんてホント短い。どんな人間だって100回季節を迎えられる人はそういない。オレなんて秋と春は10年の米国生活で殆ど味わってない。あっちは殆ど夏か冬だったから(笑)。 何年かぶりに春、九段坂を歩いたとき、武道館の御壕で石垣と青々した芝生にしな垂れた染井吉野がゆったり春風を浴びながら堀池に桜吹雪を散らしているの見て、その神々しいほどの色彩に「・・なんて、美しいんだろう」と震えたのを覚えている。外国人がワケ判らず「it's beautifull...」なんていうを聞いて苦笑するが、彼等にただならぬシンパシーを覚えたワケだ(笑)。しかし同時に、見慣れる、ということが如何に意識の上で罪深いものだろうと感じ、恐ろしくさえなった。自分にとっての10年の渡米生活は如何に固定観念を持たないか?という課題であり、またそれへの対策でもある。
だが、現状で言うと一種の決め付けが周囲のあらゆる思想に対する提示ということでもあり、「答」という概念が持つ説得性が作品創作のひとつの妥協案として、また「始まって終わる」という生理にとって必然だということに、一種の違和感と苦痛さえ覚える。しかし、作品の運命とは結局そんなものなのかもしれない。確かに、考えてみれば作品は自分の人生より一般的時間において絶対的に短いわけだから。 「答」という説得性というか・・・、つまり大袈裟かもしれないが、それは「死」と同列であるべきなんだろう。そう思えばもう少し積極的に「オチ」というモノに取り組むこともできるのかもしれない。「これは作品にとって死である」とすれば、自己啓発的に物語/ドラマツルギーに対して忠誠を誓うこともできるのかもしれない。タルコフスキー症候群からようやく脱皮できるのかもと。。。。(笑)  たとえば『七人の侍』で志村喬の「勝ったのは農民だ・・」みたいなセリフはどうしても決着への妥協案にしか感じられなくて、男の子っぽい恥ずかしささえ覚えてしまう・・。しかし、黒澤の潔い真摯な姿勢はやはり買うべきだとして、最終的に「完」となって作品と心中するワケだ。 ・・・だが、『羅生門』の俗に言われるワケ判らない終わりの方がやっぱりオレは好きだし、心中するなら100%あっちだと思う。
結局、哀しい哉、これは国民性ということか? だが現代はまったくもって芸術文化という「感性」への欲求が麻痺している。これは国民性を操った教育であるとどうしても感じてしまうオレはインボーロンに嵌り過ぎの傾向なのだろうかと、ついつい自問する、ワケだが・・・(笑)
  • 永松さんと話す(6.23)   新宿で『吸血』のプロデューサーの永松さんと久々に話す。いろいろ今後の展開など。29日に批評家の志賀さんと会うことになった。
  • 寺島さん(6.1)  映像作家の寺島真理さんの愛知芸術文化支援の作品を少しだけ手伝っている。彼女の旦那さんの岩本賢児さんともお会いして、『光と影の世紀』(岩本賢児著 森話社)という本を頂いた。大変読みやすくて映画の始まりから現状までいろいろと詳しく書いてある良書である「最近の映画には影がない」みたいなこと書いてあって、「ウ~ム、これオレが吸血でやりたかったことじゃん」みたいな感じで嬉しくなる。さらに偶然、岩本氏はベケットカフェでお世話になった岡室さんの先生でもあったらしくびっくり。。。寺島さんは『吸血』とても気に入ってくれたので、今度の試写会では岩本さんもお誘いしてみようと思っている。

2009年6月24日水曜日

ダラダラと書く。。。

個人的創作のハナシ:現在二つの作業を行っている。ひとつは『ファラヲ』の制作。もうひとつは9月の某脚本コンペに向けての脚本上げ。もうかれこれ2年くらい前に取り掛かってその後、主に『吸血』、そして仕事映像やらですっかりご無沙汰になっていた『パステル』(仮題)という脚本。これが某コンペの主旨にとりあえず適っているだろう、という予想をもとに書き上げる心積もり。 な~んて、あんま進んでないのだが、アイデアはそこそこあるので、書き上げられるだろうと思っている。そのコンペに受からなくても雑誌「シナリオ」の新人コンペとか、またそれがダメであっても、もともと Stavros Film の企画主旨である長編商業映画用の脚本第2弾として保管できる。じつは他にもいろいろ長編映画の構想はあるんだけど、なにぶん他の作業やら生活のいろいろで、なかなか「書く」という体制を維持できていないのが現状。『吸血』が終わったら今度は『ファラヲ』もあり~で、落ち着かないワケだな。しかも『吸血』は制作が終わっても上映まで準備がいろいろとある。どうにか単館での一般上映に漕ぎ着けるまでスタッフとともに時間を合わせながらやっているので気が抜けないのが現状。 さっき運営リーダーの中山が7月に試写会を開くという連絡があり、また動き出し始めた。7月試写会が終わったら一般上映にむけようやく舵を取ることになりそうだナ。

しかし、長編映画脚本があってもそれを読んでくれるようなプロデューサーいるんだろうか?と疑問に思う輩もいるだろうが、そこは「ないよりはマシ」ってことで、こればっかは巡り合わせと思っている。第1弾はこれまでに2名の某プロデューサーに読んでもらい一度は映画化までに漕ぎ着けたが結局ポシャッた(笑)。オレはべつに監督にならなくても良いと思っているので(そりゃなれたらやるけど)、いつでも「ハイどうぞ」と渡せるものがあるという体制を整えておきたいというのが狙いなのだな。
しかし、もっと速いペースで書くことはできないだろうかナ?
『パステル』(仮題)はハコ書きを徹底的にすることが一番と思うのだが、現状ではそれも進んでない。現在5分の2くらいは一応書き上げられてて、あとまたじっくりと腰をすえて、、と思ってるから全然できてないワケだ(笑)。しかし、やる、やるからにはやるぞ。

こないだ黒テントの『イスメネ・控室・地下鉄 ~終らない終りについての三章~』を観た時、「オレも戯曲を書いてみたいナ」なんて軽々しく思いついてしまって(!)、これもなかなかさ、つまり戯曲って映画脚本に比べてなに書いてもイイって感じがしたワケだ。舞台はふと誰かが出てきて終わりまで延々と喋ったとしても成り立つ「空間」ってものがあって、それを好きなように使えるという自由がある、と。。。 映画でそれやると殆ど失敗する。やっぱ映画は「時間」に支配されてる。饒舌で言えばウディ・アレンは自然体で上手くて、その上手いってのはつまり言葉のやり取りがリズムになってる。山中貞夫の映画もテンポが(天才的に)良くって観てるとついついワクワクしてしまうんだよナ(笑)。映画のテンポってのは録音システム後の音楽と一緒で、オリジナリティーってのは、やっぱトーンにあるんじゃないかと思う・・。映画は作家(監督)のテンポにあるんだろう、ともいえる。 黒澤みたいにいろんなタイプの映画を撮った監督はやっぱそのリズムで失敗する場合もある。いや、というより観客の固定観念のリズムと黒澤の作為が時にズレてしまう、ということかもしれない。『悪い奴ほど~』と『天国と地獄』じゃあ明らかになんか違うと誰もが思うワケだ。ある意味、黒澤映画で一番一定一貫したリズムで最後まで心地良く行ったのは『虎の尾~』で、その次に『デルス・ウザーラ』、この2本くらいじゃないかな? まあある意味どうにか『八月の狂詩曲』も入れても、良いかも。 しかし他はどっかリアリズムみたいな「生っぽさ」を出そうとするヘンな癖があるんだよな。

2009年6月16日火曜日

幽霊べけっ

ずっとブログ書きを怠ってきた。なんだかちっとも筆なるキーが打てない心境だった。まあ、どうってことなかったんだけどね。mixiとか掲示板はちょこちょこ書いてたけどブログはもっと内的な部分と現状とかを少し絡めたいという気持ちから億劫、てか気分が乗らなかったワケだ。
その間いろいろなことがあった。しかし今日は雨がふったり止んだりでつい先日まで3本あった傘がどこへやら置き忘れたおかげで1本もなくなってた。いちいち傘を買うのも馬鹿らしいので雨が弱いときを見計らって表へ出てご飯を食べたり、ぼんやりコンビニへ行ったりした。昨日までベケットカフェ vol.2の上演があり、その打ち上げで遅くまで呑んでた。明大前で鈴木さんら『幽霊三重奏』チームに手を振ったあとフラフラ歩いて帰った。雨がふったり止んだりの日は睡魔に良く襲われる。今日は何もないから一人で映画でもふらっと行こうと思ったけど、やっぱ睡魔と傘がないせいで諦めたのさ(笑)。
  • ベケットカフェ vol.2 『幽霊三重奏 テレビのための劇』(6.12~14)
ひと月ほどの程好い稽古で辿り着いた小作品。いちおう出演ということではあったが、やってることは撮影~台本に基づいた撮影だった。演出の鈴木さんとは西荻の小さな劇場で会ってから6~7年たつ。佐藤信さんの演助といえばこの人って感じで、その彼の初演出作品だった。そういう記念的作品に関われて良かった事、あとベケットについて全然無知だったので、貴重な体験となった。戯曲も面白いかもしれないが、小説を今度読んでみようと思う。肝心の公演はライヴと一緒で良い時と駄目な時とあって、自分的には全四公演で2日目の夜が一番良かった。初日は緊張が巧く働いてくれた。・・てな感じ(笑)。 2日目の夜、テルプシコールに住み着いてる奇怪な形をした手足が何本もある舞踏の幽霊が夢に現れた。 写真はベケット研究の第一人者岡室先生が撮影したもの~初日のゲネプロだと思う。
  • 金井勝上映会(5.31)   『前衛仙術』から6年の月日がたつ。金井勝は未だに新作の脳内妄想とその熟成を待っているようだ。neoneo座に足を運んで始めて『王国』を見る。もう既に見ていた知人らから口々に「最後に突然ガラパゴス諸島に行くんだよ!」みたいなことを聞いていて、その理由を聞いても「シュールだからじゃねーか?」みたいな好い加減な答えしか聞けなかったが(笑)、今回見てみてその理由が判った。百聞は一見にしかずで、進化論のことだったわけだ。金井さん特有の観念や実存の問題意識と進化論を融合させた完全なる金井ワールドだった。映画を見終わったあと、そして金井さんと山田勇氏のトークで久しぶりに「実存主義」という言葉を耳にする。。。余談になるが上映のあとの懇談会で向かいの席に座ってた某氏はもともと渡辺文樹監督の撮影班で、渡辺監督のその超ラジカルな映画作法やあの有名(!?)な電柱にくくりつけるポスター運動など、奇想天外なエピソードに耳をついつい傾ける。
  • 『ファラヲ』のCG   現在制作中のファラヲのUFO
『ファラヲ』は『吸血』に比べるととってもヘンテコな作品で、でもまあ親しみもあるような、笑っちゃう作品になる、と思う。今しばらくお待ちを。出演は黒テントの若手メンバーと『M退治』チーム、あと怪優ホリケン。、お楽しみを。。