2009年10月30日金曜日

起床


あ~ぁ、目が覚めちまった、時計は朝の5時。
こういう時はたいがい、隣近所のバタバタで起こされている、今日この頃。オレが住んでるアパートは半分が東大生らしい、学生ってのはいつもそういう事情なんだな・・。
しかし最近、生活に新展開あり、グダグダになっているここ数ヶ月(・・いや、数年か? 笑)の生活を復興するのに日夜調整中。気分的には初めて駒場へ移ったときの感覚に、やや近い。 もっと努力してあの状況へ自分自身を引っ張り上げなきゃいけない。いや、あれ以上にだ。あの頃の精神でやり抜かなければ重い重い日々日常に押し潰されてしまう。 結局一番怖いのが人からの誘惑で、自分は一般とは違う境遇だ、ということを認識しながらも、それと分単位で常に向き合い、言い聞かさなければ現実の支配者(Master of Reality)の魔の手にいとも簡単に流されてしまう。 オレの血に爛々と漲るブルジョアの血に、熱した真剣を突き刺さなければ、周りは隙さえあれば潰してしまおうと秒単位で迫ってくる・・。
それだけ「今」という時は目の前にいながらもボンヤリと流れて行きやがる、けったいな産物だ。
なにはともあれ、人間は自分の弱さを知った時こそ、強くなれるものだ。 オレはここ数年、それを忘れていた・・・、というか誘惑に流されすべてが滅茶苦茶になってしまったんだな。洪水で建造中の家が完全に流れていってしまったような・・・(笑)。 だがまた建てれば良い、建てるぞ、自分の、精神の家を。

近況の、報告
  • 寺嶋さん  愛知芸術文化センターのオリジナル映像作品企画の本年度の映像作家に選ばれた寺嶋真理さんの映像制作をここ数ヶ月手伝っている。デジタル処理の箇所を数シーン。ひょんなことで知り合いになって、彼女は『ドライ』の黒沢コンペにも足を運んでくれたりして、数少ない映像作家の友人である。来年の『吸血』の上映会では寺嶋さんにもゲスト参加してもらおうと思っている。
  • 浅草署(10.5)  11月の『吸血』」リバーサイドホール上映会で野外受付の件を聞きに雨の浅草へ。駅からちょっとした距離にある。帰りは雨の中神社に向かい、その周辺をぶらぶらと歩く。歩きすぎて足がびしょ濡れ(笑)
  • 旅とあいつとお姫さま(10.10)  座・高円寺で上演されていた子供向けお芝居。といっても充分大人も楽しめる素敵な舞台だった。オレ基本的にああいうファンタジーもの大好きだから、と~っても楽しめた。最後のキラキラも映画観てるみたいで、何度も見たい作品だった。 出演者の楠原竜也くんとは勝部知子ちゃんのC.I.co.発足時から知り合いで、今回挨拶できなかったけど、数ヶ月前、偶然、駒場東大前の駅で数年ぶりにはち会って、その時「オレ明日からイタリヤ行くんですよ」なんて言ってた。で、今回彼の上達した動きを見、演出家がイタリヤのテレーサ・ルドヴィコ氏ってことで、合点がいった。パンフレット見たら彼女の元で稽古していたらしい。担当の近藤さん曰く、来年もやるそうだからまた見たいな。
  • ゴールドコンサート(10.12)  毎年恒例の中根さんのお仕事収録。初めてのキャノンのHDVカメラは少し手こずったけどとりあえず無事終了。今年は撮影班人が多かったから搬出搬入も楽でいつもみたいに終わってどっと疲れなかったナ(笑)。
  • 『吸血』打ち合わせ(10.21)  御茶ノ水で『吸血』運営実行委員の打ち合わせ。初めて感じた充実感!(笑)

2009年10月26日月曜日

玖月、いろいろ

『吸血』の一般上映がようやく決まった。5月ごろから試写会をずっと開いてきていろいろなジャンルの人たちから沢山のコメントを頂いて、それでようやく、一般上映。でも浅草リバーサイドホールってのは区営なもんだから会場で料金を取れないらしく、しょうがないので、振込みか当日、吾妻橋のたもとでチケット受付を開いてそちらで扱う、ということに決まった(笑)。
ちなみにチケットガイダンスはこちら
『吸血』運営実行委員会では、これから様々な上映イベントの計画をして、来年、日本の地方上映などを展開していく模様。都内でももっと上映するだろう。来年は上映をうって、再来年はDVD化して売る予定になるだろうな。
それから、下に書いた脚本もとりあえず、コンペ応募に間に合って来年3月まで結果待ち。
今現在は、映像の仕事/作業とまたしても某映画企画の企画書を書き、今日送ったところ。この脚本も書いていて、ざっと完成したら担当者へ送ろうと思っている。この手の脚本は比較的書き易い方かもしれない。候補に残れば、これまでで一番アート系の作品になる。予算も出るから、多少無理も(?)、できるかな。。。(笑)

あ~あと、ようやく『ファラヲ』を完成させる。もう長すぎた。ひとえに『吸血』のせい?なんだけど(笑)、12月、1月までに完成させる。おそらく原宿キネアティックかトリウッドでの上映になる。こちらも、お楽しみ、に(笑)

どこから書こうか?思いつき、近況の報告
  • 映像作家 中島崇(9.7)  11月だったか12月に中島さんがインスタレーションをやるというのでそのフッテージを見に中島邸に向かう。中島さんらしいシンプルな構成だが「おお、」と思わせる内容のもの。終わって近くのうなぎ屋でうなぎをご馳走してもらう。新井薬師/哲学堂公園の周囲は清掃バイトでもたまに行く場所。帰りはフラフラと夜の落合周辺をほろ酔い加減で歩く。
  • ラジオ未来塾(9.12)  原宿/青山周辺で都市開発計画などを企画、進行しているラジオ未来塾に急遽、映像作家として講師を依頼され(!)、赴く。2時間ほど意見交換などを含め話す。でもどっか「オレでいいのかな?」なんて思うこともしばしば。。(笑) どう思われたかは、判らん次第。 表参道行く前にバッタリ清掃バイトの仲間に渋谷で会う。これから講師やりいくんだよ、とはちょっと言えなかったナ(笑)。
  • 天ナス結婚式(9.13)  今年は結婚が多い。天才ナカムラスペシャルルとエバタの結婚式はその締めくくりにふさわしく、天気も良好、沢山の人等で賑わってた。代官山周辺だったので2次会まで家で寝る。
  • 佐藤信のマックG4(9.16)  ダンス01のこれまでのVHSをDVD化する作業をず~っとやっててそれがようやく終わり、下井草のダンス01スタジオまで持っていく。啓子さんはいなかったけど、信さんの数年前からの約束だったG4を頂戴する→信さんもいなかったけどさ(笑)。 で、現在、何専用機にするか検討中。ま、たぶん当面はi-Tuneなどの音楽専用/管理機にして、ネットもやりたいなと。 そんでちょっとした金が入ったら(!いつ?)、ファイナルカットと外付けHDも導入しようと現在たくらみ中。そうすれば簡単なお仕事編集作業、たとえばライブ収録なんかはこれで完パケまで楽勝で編集できるようになる。
  • 中根さん(9.18)  映像仲間の中根さんの某VP収録に録音で参加。録音で参加なんて初めてに近いので、ちょっと参った(笑)。場所は田園調布の先の某ハウススタジオ。メイクに『吸血』でもやってくれたカワイイ嶋田さん、で、照明もこちらも田中さんでスタブロ スタッフ結構いたりと・・。で、まあ、早くあがってとりあえず疲れた。やっぱいつもはDだから判らなかったことも多し。田中さんにつねられたヨ(笑)
  • 八柱墓地(9.22)  最近、どうにか再び交流を始めるようになった父と墓参り。22日は母の月命日でもある。墓参りは何年ぶりかな?天気良好。駅から墓地まで歩く。 八柱駅のカレー屋でカレーを食って別れる。 夜、NHKで白洲のドラマ~近衛の死の回を偶然観る。様々な憶測を想像させる、近衛の死・・。
  • で、脱稿&提出(9.30)  とにかく書いた。で、消印間に合う、それがすべて。
最近、自分の先祖などのことが気になって、辛うじて交流を取り戻した父にいろいろと聞いた。ネットに無料で家計図ソフトがダウンロードできるからそれに判っていること等を書き込んでいる。ま、だからどうしたって感じだけど、ネ(笑)。
あと脚本はまた近々書くと思う。まあ、そのまえになにがなんでも『ファラヲ』なんだけどね~頑張りマス~!

2009年9月27日日曜日

とりあえず、脱稿


ここ数ヶ月かかって取り掛かっていた長編映画脚本の第1稿がようやく書き終わった。
400字詰めで104ページ。正味1時間半~2時間弱の作品かな?

べつに毎日片時も離れず取り掛かってたワケではなく、人生他にもいろいろあんので(笑)、思いついた時に書いてた感じだが。。。
そもそもことの始まりは、もうかれこれ5年前に黒沢コンペにノミネートされた『ドライ』という作品の長編バージョンできないかな?というところから始まった。 でもプロットはできてても、とくにそれ以上進めることもなく、その2年後に改めて長編脚本として書こうとなって、月2回のシナリオ研究会を開き、聞き手も交えての再執筆となったのだった。
しかし、その年の夏に『吸血』を撮ることが決まったので離れてしまい、また急遽『ファラヲ』の撮影が決まったり、他の仕事が入ったりと、すっかり手をつけられないまま時が過ぎていった。 たまに思い出してもべつに手をつけることもなく、「まあ、いつかやろう」と思ってたくらいだったが、ようやく今年の中盤になって、某脚本コンペの情報得て、改めて書くことになった。

ついこないだまで題名を『パステル』としてたけど、数週間前に『匣人 HAKO-BITO』という題名に改題した。漢字のあとにローマ字って良くありがちなんだけど、まあ、読めない人もいるだろうし、いいかな?(笑)。 最初は『ドライ-ロングバージョン』という仮題で、そのあと題名が『瓦礫の信者』(笑)、で、硬いから『パステル』にしようとなったけど、それもどうも違うので、いろいろ考えた末、『匣人』となった。
画像は今回書くために使った構想やら箱書きシートやらで、実際の原稿はほぼ半分がデスクトップPC、もう半分は借りているノートPCで書いた、あと、とくにクライマックスの辺りは原稿用紙に手書きで書いたのをあとでPCで書き込んでいった。 メモ帳も持ち歩いていつでもアイデアを書き込めるようにした。 ノート(紙)は主に作品の構成を整えるために使った。

これから1~2日で読み直し第2稿を書く。
いろいろ練って書いたから全体的にブレはないと確信している。 だから第2稿は細かい部分の修正で済むだろう。
なんにせよ書きあがってホッとした。

2009年8月18日火曜日

るさんち

夏になると窓を開け、ブラインドで角度をつけて換気扇を回すのが習慣。一人住まいのアパートで、玄関を開けるとすぐ細長い台所があり、そのまますぐ部屋になる。換気扇をつけると空気の流れがブラインドの窓からす~っと流れていき、とっても涼しい。 でもむかし「リア王の悲劇」の時、稽古場で引越し先の図面を選んでると元Church of Miseryのギタリストで当時美術をやってた星さんに「玄関すぐの細長い台所は絶対やめた方がイイ」と言われ、しかしその意味判らぬまま、住んでみると確かに、彼は正しかった。とにかく通り難いわけだ、それだけでムカついたりする(笑)。 ま、それはさておき、先日いつものように窓を開けブラインドに適度な角度をつけ換気扇を回しながら電話で友人と話していると、窓の外から入ってきたのか、でっかいゴキブリがオレの左足(素足)をササッと歩きやがった。そいつを殺せなかったことが心残りの今日この頃である。。。
@ホームページに「インディペンデント宣言」という題の小宣言なるものを書こうと書き始めるも、上手く書けない。どうしてもルサンチマン的構造/文法から離れられない形式になってしまう。 そうこうしているうちに世間では映画会社がどんどん潰れていっている。この現象はまだまだ治まらないだろうし、なんらかの時代の変化に他ならないと判断する。しかし、日本映画の悲惨なところは、こういう時期に誰もその舵取りをすべき批評家なり、専門家がいないことだ。配給・宣伝と今後どういう対策でやるべきか?イベント形式にするしか映画の宣伝はもやは成り立たないのかな・・?
映画になにを託すべきなのか、・・・いや、もうそんな時代はとっくに過ぎ去ってしまったんだろう。市場原理主義に映画は骨抜きにされたのではないか。
映画は死に、浮遊霊だけが幻を生産させている。

先日、「吸血」の試写会でアップリンクの某担当者と話したとき、アンダーグラウンド映画自体もうすっかり存在しないというハナシになり、無論判っていたことだが、歯痒さは残る。採算が取れなきゃ意味がない。観客の平常心は、映画とは、その文法、その画面そのものまで汎商業的なものであって、作り手のある視点的意図など受け入れ難い感性になっている。結局、判りやすい映画を作ることしか術はない、という実態にぶつかるわけだ。そんなの明日にでもやろうと思えばできるぜ、金を俺の前に積んでくれヨ! でも商業がやってるじゃないか、と言いたいところだ。 画面の資本性、繋ぎの資本性、すべて商業映画がこつこつと作り上げてきた実績であるわけだ。そして今現在、商業がやれる一番は、有名タレントを起用することで、観客の大半はそれで満たせる、、のかな? アンダーグラウンドが駄目なのは誰が見ても美しい容姿を持った女優なりが殆ど皆無だと言うことだ。そういうのは皆、事務所に取られる。みんな有名人になりたいワケだ(笑)。ギャラを払って時間内に撮らなきゃいけない。「芸能人なんて、ありゃアレで大変だよ、アンダーグラウンドで遊びながら撮ろうぜ」なんてのん気なノリのイイ女なんてそうはいない。女はやっぱ生理的に契約好きな生き物なんだよナ。
近年の映画業界全体で言えるのは、かかり過ぎる人員、労働、費用、に対して観客動員とその方法論のあいだに計り知れない溝が出来てしまい、皆、それを見てみない振りをして誤魔化している。

映画そのものが元来、無茶な採算だったってことをハリウッドはずっと隠し続けてきたワケだ。
近年の日本のプロデューサー陣は映画を売ることより作ることで儲け、スタッフはやっとの生活か人情で関わり、監督ばかりが未だに増え続けている。

いろいろ考えるともうやめようかと思わざるを得なくなってくるよナ。いっそのことここですべてを辞めちまって、ランボーみたいに潔く、一生堅気になるのも人生ではあるワケだ。  違う人間として生まれ変わる。それもそれで人生実験として面白い。オレが映画を辞めてもべつに誰の迷惑にもならないし、逆に迷惑が半減する(笑)。何故あんな詰まらんモノで他人の時間を奪って好い気になってんのか・・。

@ここにも何度も書いてる新作脚本は現在、ゆっくり進行中。 オレは好きだけど、さて一般的には・・・?あと昔書いた長編脚本(約500字×177㌻)をいま、アニメでもイケルんじゃないかと、親しい友人に頼んで某有名アニメ会社に持って行くことになった。いまその決定稿を刷っている。アニメでやるなんて考えてもみなかったが、登場人物の設定とか考えると、実写より嫌味なく描けるし、いろんな意味で伝わりやすくなると思った。ただ、その友人の言うとおり、ハードルは高い。むろん、オレは原作・脚本で留まるつもり。気に入られたら専門家にすべて任せる。それが一番懸命だ。


2009年7月30日木曜日

怪奇/独創/作家主義/?

 『吸血』の記事がトーキングヘッズ叢書No.39に掲載された。ライターは前回も書いて下った志賀信夫さん。この他にこの作品に関していろいろな方々がコメント下さって、感謝感激である。よろしかったら→こちらから。 作品はこれからも上映するからまだまだいろいろな感想を聞けると思う。 しかし、自分ではできるだけシンプルに仕上げたつもりだったが、先日の試写のあとスタッフらが「いろんな要素があって、どこを絞って宣伝するか悩みどころ」と話すのを聞いて少し驚く。それから感じたのは女性の支持者・理解者が多いってこと。その他、年齢と性別、あたりまえだけど専門分野でハッキリ意見がわかれるようなところがあって、面白い、というか興味深いというか。。。  詩人・映像作家の鈴木志郎康さんの感想は作り手側の意図を掴んでいて、作り手の作為を逸らさず、且つ指摘するところはしている文章だった。実にありがたいし、次の作品へのなんらかの注意点にもなる。 しかし言い訳になってしまうが、『吸血』という作品のそもそもの始まり方からしていろいろあった。最初から映画一本のみ創る、ということだったらもっと違っていただろうにナ。。。


 「独創性」という言葉はずいぶん昔だが以前の作品批評の時も鈴木さんは使ってくれた。そういう言葉は単純に耳にして嬉しい、しかし同時に時代とどう兼ね合い、付き合うべきか?と突きつけられる。作家と時代との関係はおそらく作家個人にとってみれば経済的問題だ(笑)。ゴッホが良い例のように。 映画業界には、独創的過ぎてみんなから敬遠されるグリーナウェイみたいな人もいて、どうして次回作が撮れるのか不思議だけど(笑)、同時にクローネンバーグみたいな人もいる。 ところでクローネンバーグの「身体性」は、やはり70年代とかのフィルム時代のポルノ映画だろう。あの妙な色調と内臓感あふれる画面は、彼がポルノフリークだからとしか言いようがない。彼の映画が他の映画の質感と違うのはそこなんだ。

 ところで、作家性という言葉/概念のいかがわしさ、政治という概念/言葉のいかがわしさ、が、ここのところずっと、脳内で蠢く血流だ。政治のことはこのブログにあまり書かないことにしているのは、そもそものいかがわしさが原因なんだが、作家性、といういかがわしさでこのブログは常に更新されている(笑)。
 いずれにせよ、誰か/何かが社会に認められるという現象は政治的であることはたしかな事実だ、だが意外とそのカラクリは80年代以降の若者には知られていない。彼らはお上の顔色をうかがうことに安心感を覚えてしまうようだ、そう育てられたワケだ。金/生活という幻が拍車をかけ僕らの国の偏向を極端に際立たせてしまった。こんなこと、20年前にいったら共産主義者と思われるだろうが、その共産主義もいかがわしさまっしぐらだった、ということはある程度、現代人ならば認識できているはずだ。イデオロギーという死語が現存するなら、資本主義という死神がそいつらを食い漁って時代は行き場を失った。若者が目覚め、自分たち同士をハッタリでも良いから批評/評価し合わなければ、文化は死を間近にしてそのまま逝ってしまうだろう。言葉の力を必要とする、そんな時代が来たように思えてならない・・・

2009年7月16日木曜日

I know what you're thinking. "Did he fire six shots or only five?"


おととい、執筆中の脚本の山場を書き上げた。あと困難な箇所はクライマックスだろうか。書き上げて我ながらなかなかと思っているけど、こういう、オレが良いと思うものって大抵人には判ってもらえないのだナ(笑)~その確率80%、、、いやもっとかな(笑)。
しかし映画/映像なんてバカにされたものだよな、四方から「総合芸術」と勝手に刷り込まれ、学者からは2流と格され、庶民からはテレビと同等とされ(あるいは、されるべきとされ)、文法を害せば難解と称され、芸術家からは常に破壊されるがまま。 つまるところ、お前は情報以上の何者でもないのだ、とみんなが執拗に謂わんとするかのようだ。
誰も映画を理解しようと試みない。ま、研究家は少なからずはいるが・・しかしそれは古典科学者たちが光の媒介:エーテルを探求したように、無益なものかもしれない。アインシュタインのような輩が「エーテル?ないですよ」と言ったが最後、誰も言及しなくなる:そして近代科学が拓けたワケだ。
いまの映画の状態は「映画?ただの情報ですよ」と言われるがまま、大資本市場の大舞台に乗って背後関係者のご都合主義の恰好の道具として振舞っているかのようだ。

映画の単独性はやはりいまのところ、作家性という状態以上のものでは発揮されてない。タルコフスキーであろうがスピルバーグであろうが、作家の主張とはメッセージとはまた違った類のものだ。言葉に置き換えられない主張こそ映画の単独性だとオレは言いたい。
黒澤が「一生懸命赤を塗ってんのに、批評家は青じゃないという・・」というのはまさにひとつのステレオタイプの高慢な錯覚が発生しているからに他ならない。批評家と名乗る輩の主体性または目指すところとはなんだろう?沢山見たから、こう言えるとういことだけか?映画監督なり作家にとって知識なんて本来なんの価値もないということをまず頭に入れてほしいな。
だが作家の意図と映画の本性とはまた違ったところにあるともいえるだろう。

まったく、映画とは、なんて不恰好なヤツなんだろう。。。

2009年7月10日金曜日

現状・・・


ここのところ、見に行くつもりでいた芝居、うっかり上演時間勘違いしたり、急な来客などで見逃してしまうことが、何本か・・。
本棚を見渡せば、買ってそのままの本が結構ある~とりあえず、そいつらを片付けようと始めてみる。

作業現状は脚本執筆と『ファラヲ』CG制作などとあるんだが、走っても走ってもなかなか力が入らなくてちっとも前に進まない夢のように、じつにスローペース。ホン(脚本)書きの現状は箱書きの「転」の部分が「承」になってしまい(笑)、さらにシーンを追加しなくてはならなくなった。こういう時、何気に浮かんだイメージを使うか使わないかで脳内で構想(抗争?)が始まる。

「果たしてこれは、シーンとして活きるのか?
 本当に適しているか? 安易な選択ではなかろうか?」 と・・

そうこうしているうちに時が過ぎ、あっという間に〆切目前となり、ドサクサ紛れに書き上げて良しとしてまう。だが今回これだけは起こらないように配慮したい。おそらく普段から書き慣れていればこんなことはないんだろうが・・。 とにかく何事も勉強と思って、内容も然りだが、自分なりの方法論を如何に掴むか、これも大きな課題のひとつである。
つまり、ワッと湧いたイメージの直感を信じつつ、それが何故なのか、如何なる発想であったのか、そしてどう作品と結びつくべきモノなのかを把握する、じつに生理構築的作業なんだろうなと。分析するか、またはもっともらしい意味を関連付けられるかが問題だ。映画の場合、始まった途端、誰が頼んだ訳もなく自ずとルールが付随されてしまう。それを上手く壊せば天才的かもしれないが、失敗すると必ず観客は退く~ちょっとした本能とか生理的なハナシなんだが・・・。とりあえず、湧いてくるイメージと如何に遊べるか、作家の力量が問われるワケだナ。 現在、ざっと半分までできている。この2週間で全部あげられたら、第2、3稿と〆切まで練れるんだが・・。なにしろコンペモノである以上、読み手にページを捲らせることが最重要課題だ。


書き終わったら低予算自主企画のドラマを一本書きたくなってきた。ごくごく日常的な設定で、特別な作業がさほどかからない作品(!?)を1本作りたい。80分くらいの長さで。 ・・そうだな、欲を言えばじっくり演出指導して撮影に挑みたい。これがいままでどの作品でもできていない。芝居演出することに確実に餓えている。 まあ、そのまえにセルフドキュメンタリーの『Air...』があったが。これはルールなんて関係なく、やりたいようにやる。映画/政治/メディア/日常/フィクション・・・、などとキーワードがいくつか浮かぶ。時間も恐ろしく長くしたいな(笑)。 誰が見るんだろう、ハハハ

2009年6月28日日曜日

かく

昨年、大阪にて一番最初の『吸血 完全版』上映を取り仕切って頂いた俳人・花森こまさんの個人俳句誌『逸』がこのたび堂々完成し、昨日届きました。本号用の原稿を頼まれたので、俳句ではないんですが『吸血』のことを書いています。
写真右が『逸』の表紙で中央が『吸血』が掲載されてるページ。ついでに左、は関係ないんですが、いま執筆中の脚本(笑)。『逸』は日本全国の俳人から俳句を募る個人誌で今回で26号になる10年以上も続いている執念の個人誌です。一部1000円で年2回発行しているそうです。ご興味ある方は、とりあえず一度僕にメール下さい(stavrosfilm@yahoo.co.jp)。

映像作家やっててひとつ思うことは、書くってことが意外と多いってことですね。自分でも気が付かなかったけど、気分さえ乗ってれば「書くこと意外と好きかもな、オレ」と思うし、このブログもそうなんですが、べつに誰に頼まれてるわけでもないですからね・・。むろんまだ雑誌に書いたりはないけど、同人誌的な冊子なら「ドストエーフスキイ広場」でも書いてて、あれは『悪霊』についてのことだったけど、もう幾分前になります。

じつは現在、密かに(といって、もう書いてますが)単館系映画館、小劇場とかに置けるような不定期なフリーペーパーを考えてて、非商業的な映画や舞台、その他、若干の時事ネタやらアートなどの評を掲載して、とりあえず、雑誌運動しようかなと模索中・・・。つまり、ネットじゃ限界あるんじゃないかと。~つまりネットはアクセス/検索しない限り閉ざされてるメディアだから、それを打破するのはやっぱ配布しかないだろうと・・。で、売ると逆に面倒なので、映画館やら劇場に置いてもらう。これをやりたいんですね。  と、勝手に独りで決めちゃってるんだけど、まあ、面白そうに考えてくれてる輩もいるので、脳内妄想から脱皮して実現した暁にはどっかでパッとやるのも宜しいかナ・・(笑)

で、脚本執筆といえば、まあ、ああやって、書き上げたところをプリントアウトしてその後の構想/展開を練ったりしながら書いてます。思ったのはこれを書いてた当初(2年位まえ)、研究会形式にして月に2度出来たところを集まってくれた方に読むと言うのをやってたんだけど、やっぱどうしても間に合わそうとして、余計なシーンやらキャラクターを書いたり、説明的過ぎる辻褄合わせとかを今回発見。時間がたって客観視できたことで作品意図が明確になってきたって感じ、なんですナ。なんにせよ頑張りマス。

2009年6月26日金曜日

中国エーガ

今日、後半部分しか見られなかったが、李継賢(リー・チーシアン)監督の『1978年、冬』を偶然見た。とても良かった。久々に良い映画に出会った気がする。良い映画(監督)に出会うととても幸せな気分になる。李監督はこれから期待の中国の監督だな。*画像は『1978年、冬』の一場面
台湾になってしまうけど、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や楊徳昌(エドワード・ヤン)も久々に見たくなってきた。楊徳昌の『牯嶺街少年殺人事件』はいままで観た映画のベスト3(順不同)に入っているし、『恐怖分子』『恋愛時代』『カップルズ』は何度でも見直したい作品だ。侯孝賢はあまり観てないんだけど、とくに好きだったのは『冬冬の夏休み』だった。
いまふと思ったけど、香港映画やインド映画、それからアメリカ映画みたいに映画産業が盛んな国の映画、たとえば、香港の巨匠となったウォン・カーウァイの初期の映画とか観ると予算がない感じが画面にえらく映ってる。映画産業が盛んな国の映画ほど金がないとその貧乏臭さみたいのが画面に溢れて、一種がさつな撮影現場の匂いが立ち込めたように見える。またそういう国の、金のかかった映画はやはり「お金かかってます!」と言わんばかりの臭気が画面一杯、誰の目にも判るように仕上げられている。しかし一方で映画産業がそこそこの国の、大した制作費もかかっていない映画を観ると、貧乏臭さなんてつゆ知らず、キャメラが人間の内部まで浸透したような、美しさが滲み出ているような気もする・・。資本主義制度に追われた社会/人間の歪みは、やはり映画の画面に自ずと滲み出るものなのかも知れない。キャメラは透明な空気まで記録する厭らしい作為者だ。むろん、であるからこそ、映画は芸術であることを諦め切れない。つまり、生意気なこと言ってしまえば、日本映画の現状は、やはり醜い。日本映画が万が一再生した暁にはいま現状で作られている殆どの映画は残らないと、敢えて断言する。文化的恥じとしては充分残るだろうが。「なんでこんなもんに大金かけてるの!?」「お金儲けのため」「そんなに儲かったの?」「べつに・・」と言う声が聞こえてくるのは、オレだけじゃない筈だと思うんだが・・(笑)。
日本映画よ、一度死んでくれ! 誰の為でもなく、自身の為に

2009年6月25日木曜日

夏らしく

ようやく夏らしくなってきた。
梅雨が明けたら本格的に熱くなる、ま、いつものことなんだが。人間の生きる寿命なんてホント短い。どんな人間だって100回季節を迎えられる人はそういない。オレなんて秋と春は10年の米国生活で殆ど味わってない。あっちは殆ど夏か冬だったから(笑)。 何年かぶりに春、九段坂を歩いたとき、武道館の御壕で石垣と青々した芝生にしな垂れた染井吉野がゆったり春風を浴びながら堀池に桜吹雪を散らしているの見て、その神々しいほどの色彩に「・・なんて、美しいんだろう」と震えたのを覚えている。外国人がワケ判らず「it's beautifull...」なんていうを聞いて苦笑するが、彼等にただならぬシンパシーを覚えたワケだ(笑)。しかし同時に、見慣れる、ということが如何に意識の上で罪深いものだろうと感じ、恐ろしくさえなった。自分にとっての10年の渡米生活は如何に固定観念を持たないか?という課題であり、またそれへの対策でもある。
だが、現状で言うと一種の決め付けが周囲のあらゆる思想に対する提示ということでもあり、「答」という概念が持つ説得性が作品創作のひとつの妥協案として、また「始まって終わる」という生理にとって必然だということに、一種の違和感と苦痛さえ覚える。しかし、作品の運命とは結局そんなものなのかもしれない。確かに、考えてみれば作品は自分の人生より一般的時間において絶対的に短いわけだから。 「答」という説得性というか・・・、つまり大袈裟かもしれないが、それは「死」と同列であるべきなんだろう。そう思えばもう少し積極的に「オチ」というモノに取り組むこともできるのかもしれない。「これは作品にとって死である」とすれば、自己啓発的に物語/ドラマツルギーに対して忠誠を誓うこともできるのかもしれない。タルコフスキー症候群からようやく脱皮できるのかもと。。。。(笑)  たとえば『七人の侍』で志村喬の「勝ったのは農民だ・・」みたいなセリフはどうしても決着への妥協案にしか感じられなくて、男の子っぽい恥ずかしささえ覚えてしまう・・。しかし、黒澤の潔い真摯な姿勢はやはり買うべきだとして、最終的に「完」となって作品と心中するワケだ。 ・・・だが、『羅生門』の俗に言われるワケ判らない終わりの方がやっぱりオレは好きだし、心中するなら100%あっちだと思う。
結局、哀しい哉、これは国民性ということか? だが現代はまったくもって芸術文化という「感性」への欲求が麻痺している。これは国民性を操った教育であるとどうしても感じてしまうオレはインボーロンに嵌り過ぎの傾向なのだろうかと、ついつい自問する、ワケだが・・・(笑)
  • 永松さんと話す(6.23)   新宿で『吸血』のプロデューサーの永松さんと久々に話す。いろいろ今後の展開など。29日に批評家の志賀さんと会うことになった。
  • 寺島さん(6.1)  映像作家の寺島真理さんの愛知芸術文化支援の作品を少しだけ手伝っている。彼女の旦那さんの岩本賢児さんともお会いして、『光と影の世紀』(岩本賢児著 森話社)という本を頂いた。大変読みやすくて映画の始まりから現状までいろいろと詳しく書いてある良書である「最近の映画には影がない」みたいなこと書いてあって、「ウ~ム、これオレが吸血でやりたかったことじゃん」みたいな感じで嬉しくなる。さらに偶然、岩本氏はベケットカフェでお世話になった岡室さんの先生でもあったらしくびっくり。。。寺島さんは『吸血』とても気に入ってくれたので、今度の試写会では岩本さんもお誘いしてみようと思っている。

2009年6月24日水曜日

ダラダラと書く。。。

個人的創作のハナシ:現在二つの作業を行っている。ひとつは『ファラヲ』の制作。もうひとつは9月の某脚本コンペに向けての脚本上げ。もうかれこれ2年くらい前に取り掛かってその後、主に『吸血』、そして仕事映像やらですっかりご無沙汰になっていた『パステル』(仮題)という脚本。これが某コンペの主旨にとりあえず適っているだろう、という予想をもとに書き上げる心積もり。 な~んて、あんま進んでないのだが、アイデアはそこそこあるので、書き上げられるだろうと思っている。そのコンペに受からなくても雑誌「シナリオ」の新人コンペとか、またそれがダメであっても、もともと Stavros Film の企画主旨である長編商業映画用の脚本第2弾として保管できる。じつは他にもいろいろ長編映画の構想はあるんだけど、なにぶん他の作業やら生活のいろいろで、なかなか「書く」という体制を維持できていないのが現状。『吸血』が終わったら今度は『ファラヲ』もあり~で、落ち着かないワケだな。しかも『吸血』は制作が終わっても上映まで準備がいろいろとある。どうにか単館での一般上映に漕ぎ着けるまでスタッフとともに時間を合わせながらやっているので気が抜けないのが現状。 さっき運営リーダーの中山が7月に試写会を開くという連絡があり、また動き出し始めた。7月試写会が終わったら一般上映にむけようやく舵を取ることになりそうだナ。

しかし、長編映画脚本があってもそれを読んでくれるようなプロデューサーいるんだろうか?と疑問に思う輩もいるだろうが、そこは「ないよりはマシ」ってことで、こればっかは巡り合わせと思っている。第1弾はこれまでに2名の某プロデューサーに読んでもらい一度は映画化までに漕ぎ着けたが結局ポシャッた(笑)。オレはべつに監督にならなくても良いと思っているので(そりゃなれたらやるけど)、いつでも「ハイどうぞ」と渡せるものがあるという体制を整えておきたいというのが狙いなのだな。
しかし、もっと速いペースで書くことはできないだろうかナ?
『パステル』(仮題)はハコ書きを徹底的にすることが一番と思うのだが、現状ではそれも進んでない。現在5分の2くらいは一応書き上げられてて、あとまたじっくりと腰をすえて、、と思ってるから全然できてないワケだ(笑)。しかし、やる、やるからにはやるぞ。

こないだ黒テントの『イスメネ・控室・地下鉄 ~終らない終りについての三章~』を観た時、「オレも戯曲を書いてみたいナ」なんて軽々しく思いついてしまって(!)、これもなかなかさ、つまり戯曲って映画脚本に比べてなに書いてもイイって感じがしたワケだ。舞台はふと誰かが出てきて終わりまで延々と喋ったとしても成り立つ「空間」ってものがあって、それを好きなように使えるという自由がある、と。。。 映画でそれやると殆ど失敗する。やっぱ映画は「時間」に支配されてる。饒舌で言えばウディ・アレンは自然体で上手くて、その上手いってのはつまり言葉のやり取りがリズムになってる。山中貞夫の映画もテンポが(天才的に)良くって観てるとついついワクワクしてしまうんだよナ(笑)。映画のテンポってのは録音システム後の音楽と一緒で、オリジナリティーってのは、やっぱトーンにあるんじゃないかと思う・・。映画は作家(監督)のテンポにあるんだろう、ともいえる。 黒澤みたいにいろんなタイプの映画を撮った監督はやっぱそのリズムで失敗する場合もある。いや、というより観客の固定観念のリズムと黒澤の作為が時にズレてしまう、ということかもしれない。『悪い奴ほど~』と『天国と地獄』じゃあ明らかになんか違うと誰もが思うワケだ。ある意味、黒澤映画で一番一定一貫したリズムで最後まで心地良く行ったのは『虎の尾~』で、その次に『デルス・ウザーラ』、この2本くらいじゃないかな? まあある意味どうにか『八月の狂詩曲』も入れても、良いかも。 しかし他はどっかリアリズムみたいな「生っぽさ」を出そうとするヘンな癖があるんだよな。

2009年6月16日火曜日

幽霊べけっ

ずっとブログ書きを怠ってきた。なんだかちっとも筆なるキーが打てない心境だった。まあ、どうってことなかったんだけどね。mixiとか掲示板はちょこちょこ書いてたけどブログはもっと内的な部分と現状とかを少し絡めたいという気持ちから億劫、てか気分が乗らなかったワケだ。
その間いろいろなことがあった。しかし今日は雨がふったり止んだりでつい先日まで3本あった傘がどこへやら置き忘れたおかげで1本もなくなってた。いちいち傘を買うのも馬鹿らしいので雨が弱いときを見計らって表へ出てご飯を食べたり、ぼんやりコンビニへ行ったりした。昨日までベケットカフェ vol.2の上演があり、その打ち上げで遅くまで呑んでた。明大前で鈴木さんら『幽霊三重奏』チームに手を振ったあとフラフラ歩いて帰った。雨がふったり止んだりの日は睡魔に良く襲われる。今日は何もないから一人で映画でもふらっと行こうと思ったけど、やっぱ睡魔と傘がないせいで諦めたのさ(笑)。
  • ベケットカフェ vol.2 『幽霊三重奏 テレビのための劇』(6.12~14)
ひと月ほどの程好い稽古で辿り着いた小作品。いちおう出演ということではあったが、やってることは撮影~台本に基づいた撮影だった。演出の鈴木さんとは西荻の小さな劇場で会ってから6~7年たつ。佐藤信さんの演助といえばこの人って感じで、その彼の初演出作品だった。そういう記念的作品に関われて良かった事、あとベケットについて全然無知だったので、貴重な体験となった。戯曲も面白いかもしれないが、小説を今度読んでみようと思う。肝心の公演はライヴと一緒で良い時と駄目な時とあって、自分的には全四公演で2日目の夜が一番良かった。初日は緊張が巧く働いてくれた。・・てな感じ(笑)。 2日目の夜、テルプシコールに住み着いてる奇怪な形をした手足が何本もある舞踏の幽霊が夢に現れた。 写真はベケット研究の第一人者岡室先生が撮影したもの~初日のゲネプロだと思う。
  • 金井勝上映会(5.31)   『前衛仙術』から6年の月日がたつ。金井勝は未だに新作の脳内妄想とその熟成を待っているようだ。neoneo座に足を運んで始めて『王国』を見る。もう既に見ていた知人らから口々に「最後に突然ガラパゴス諸島に行くんだよ!」みたいなことを聞いていて、その理由を聞いても「シュールだからじゃねーか?」みたいな好い加減な答えしか聞けなかったが(笑)、今回見てみてその理由が判った。百聞は一見にしかずで、進化論のことだったわけだ。金井さん特有の観念や実存の問題意識と進化論を融合させた完全なる金井ワールドだった。映画を見終わったあと、そして金井さんと山田勇氏のトークで久しぶりに「実存主義」という言葉を耳にする。。。余談になるが上映のあとの懇談会で向かいの席に座ってた某氏はもともと渡辺文樹監督の撮影班で、渡辺監督のその超ラジカルな映画作法やあの有名(!?)な電柱にくくりつけるポスター運動など、奇想天外なエピソードに耳をついつい傾ける。
  • 『ファラヲ』のCG   現在制作中のファラヲのUFO
『ファラヲ』は『吸血』に比べるととってもヘンテコな作品で、でもまあ親しみもあるような、笑っちゃう作品になる、と思う。今しばらくお待ちを。出演は黒テントの若手メンバーと『M退治』チーム、あと怪優ホリケン。、お楽しみを。。

2009年3月22日日曜日

あげ-て・・

先日は座・高円寺プレ企画の本番で劇中映像、1年間のメイキングV上げ、舞台裏&入り稽古撮影、本番収録とか~なりハードだった。終わったら風邪をひいていたらしく3日ほど寝込んでしまった。いまは治りかけの風邪を引き摺りながら本番Vとメイキング本完パケに追われている~現在レンダリング中・・
座・高円寺の芸術監督になられた佐藤信さんにもほぼ1年ぶりで会って、久しぶりにお話した。えらく妄想次元的、形而上的会話だったようナ(・・笑)。 あのテのハナシを平然と、また熱く会話できる人が周りに至極少なくなっていることを悟りながら、信さんの言う一言一言に胸中で「そうそう、そう・・」と、はたまた一見平然を装った滑稽なシチュエーションにどこか戸惑いながらも、共鳴し何度も頷く・・。
ダイアローグは自身の調整であり、また他者との認識確認でもある。
高円寺的?かどうかは俄かに言いがたいが・・(笑)

お知らせ:これまでの8年近く使ってたホームページを閉鎖して引っ越すことにした。今現在は臨時アドレスにある。引っ越したらアドレスが stavrosfilm.com になるだろう。移動次第またお知らせします。


「吸血」完成披露試写会
前回の透明感ある感じから一転してコテコテ調に。ちょっとまえ流行ったホラー映画みたいだけど、やっぱインパクトあった方がイイということで、今回はこのチラシで。小林の題字が活きてるネ。柿澤さんの顔がスゴイことなってる(笑)。
で、披露試写会をまた原宿で開くことになった。
4月から数ヶ月、何回かに分けて一般公開の前に反応と宣伝用コメント集めのため。またこのチラシの裏に運営委員会リーダーの中山が短いがとても良い文章(吉本論)を書いてくれた。後日、「吸血」ホームページに載せる。
数少ない評価文、記憶だと最初は昔、第2回調布実験映画祭で佳作を取ったとき審査員長の末岡さんと映画批評家のとちぎあきらさんからコメントを頂戴し、その後は先日大阪で「吸血」について俳人の花森こまさんと五十嵐秀彦さんから頂いた。どれも実のある評価文で心から感謝している。
「吸血」はちょっと毛色の変わった「怪奇映画」だ。
だから今度試写会で一体どんな言葉を聞けるか楽しみでもあり、不安でもある。ただ「映画」の本質とその問題を常に検証し且つ愛している人なら、この作品の試みは、少なくとも判っていただけると思っている。

2009年3月6日金曜日

omit and live with it..



昨年5月原宿で第1回上映を果たした「吸血」の完全版がついに完成。
さっきPCからその全データを削除した。DV素材だから思ったほど多くはなかったが
  ファイル数 497 
 計 485.5ギガバイト

作るのは時間がかかったけど消すのはあっという間。。。がく~(落胆した顔)
いちおう将来のことも考えて、いつかHD変換できるように非圧縮データをハードディスクに保存している(約100G)。

思えば今までで一番大変な作品だったのかもしれない。いろんな人が関わって、いろんな試みもし、いろんな意見を聞いたり、撥ね返したり(笑)、しかし、結局最後は独りでデータ削除って・・、じつに感慨深い。
2年近くのあいだず~っとPC内にあったデータ・・・。
8ミリフィルムだった頃は、せっかく撮った素材を切ることがイヤだったが(笑)、今回の作品のように作品の9割以上なんかしらのエフェクトを掛けたデータで、それを消すというのは、ツライね。もっと金があれば全工程をハードディスクに保管するなんてこともできるんだろうけど、まあ、、、しかたない考えてる顔

この作品は今回のを含めて全部で約3バージョン存在する。
約、というのはあいだに細かい違いのあるのがあって、「完成!」となるまでに決断やら何やらが横行する。
しかし、この完全版は完全に完全で、もう周りになに言われようと変える気もないし、自分で変えたくなっても次回作で試みるっつうことで、ホントの完全で、ある。当初予定だったマルチパフォーマンスもやりたかったけど、ま、それはもう仕方ないね(笑)

この作品で関わったすべての人に感謝とお礼をここに表します。
ありがとう  

完全版は本年度中にアップリンク目指して公開するため現在、スタッフが動いている状況。
4月に原宿KINEATIC でプレス用試写会を開きます~数回開く予定。
公開はその後だからやっぱ秋とかかな?
その節は皆さまどうぞよろしくお願いいたします。

なんにせよ、ようやく『ファラヲ』、本格始動する~あっかんべー
よろしく

2009年1月31日土曜日

たみ

インフルエンザに罹っている。ただの風邪かと思ったのだが。

ここ数年12月暮になると決まってひどい高熱でぶっ倒れてたが、去年はなかった。11月にちょこっとひいたから今年はそれで済んだか~と安心していたら、そうは問屋は卸さずと、一足遅れで年明けてやってきた。症状も前回、前々回とまったく同じ。つまりここ2~3年、風邪と思い込んでいたのは、どうやらインフルエンザだったのではないかと思う。
沸騰するような高熱と狂気のような頭痛。「これあと数時間続いたら確実に死ぬかもしれない」と切迫されるほどの激しさなワケだ(笑)。3日3晩の高熱との格闘。3日目の午後、急に熱が37℃台まで下がったのを油断したのがきっかけに、深夜からいっきに40度近くまで舞い上がる。治り掛けからの急上昇はかなりキツイ。いい加減体力も尽きたので、諦めて病院行くとインフルエンザ陽性の太鼓判を頂戴した(笑)(本当はこれ以上自力で耐えてると脳味噌がついに使い物にならなくなってしまうかもと真剣に恐ろしくなった、というのもある)

しかし、タミフルは効きすぎてちょっと怖い。たった一錠でそれまでのオレの格闘はなんだったんだろう?と思うほど熱がいっきにグ~ンと下がっていった。まるで旧文明の血と汗の労働が新文明の最新式に一瞬にして先陣されたかのよう。たかが薬であるけれど、人もたかが人。劇薬にはイチコロである。

ま、そういうわけで、現在いちおう隔離状態の身。

2009年1月21日水曜日

B/L/U/R

空一面どんよりした雲、空気は冷たく、淋しげな透明感が漂っていた。
透明だけど、粗いフィルムみたいな黒いポツポツが湿った空気に混ざっている。道の遠くにボヤケた人影が歩き、車の音が遠のきまた近寄ってくる。
冬の空気って遠くまで限りなくピーンと一貫した波長が繋がっているようで、否応なく骨まで染みるナ・・。 
それで、淋しさって、つまり自分と向き合うしかなくなるから感じるんだろうなと、夕飯のコンビニへ向かう途中、思う。・・いや、前もそう思ったな。
で、いっこうに悪いことじゃない。詩的な時間だし、オレは好きだけど。

不況の構造のことばかり考えてると脳みそが縦割りになるというか、ことが慣れない経済であるが故に、総じて脳そのものが社会構造学的になるというか、つまり、逆にじつに単純に思えてくるんだナ・・。平らな場所に建物が建つと、少しでも隙間があれば物を建てたくなる邦人特有の貧乏根性に憤りを感じたりする。食うために建て、視野を阻める。そんなだったらニートの方がましだとも思うが。世間じゃやたら働けという、が、食うがための生命力に蝕まれたお前ら、そしてオレたち人間構造そのものを恨んだこともないのかと、逆に不思議に思ったりするオレはやはり、世間には笑われる。
新しいマルクス主義を切望する文化人もいるけど、そもそも「主義」ってのが胡散臭いってことにどうしてあのインテリどもはいつまでたっても気がつかねんだ、と常日頃思うわけなんだが・・。


さてさて、戯言は良しとして、新年になって特別変わったことは、ない。
長い映画を2本見た。長い映画は好きだ。長いと感情移入もその分深まる。

近況の報告
  • 東京乾電池『秘密の花園』(1.15)  暮の原田家餅つきで偶然トイレ待ちのとき隣にやって来られた俳優の柄本明さんに声をかけた。佐藤信さんのことを話すと、目の色を変えて話す柄本さんは本当に本当に芝居が好きなんだなと実感。柄本さん直々にチラシを頂き、「絶対行きます」と約束し、Stavros Film お楽しみ隊長&元唐組の糸瓜をお供にいいちこ持参で公演終了数日前ギリギリ危うかったが、観劇。ちょうど作の唐十郎氏も見えており、糸瓜は恭しく挨拶。開演ぎりぎりで鴎座でお世話になってるヲザキさんが偶然隣に座る~まあ、映像業界もそうだけど、舞台も狭いよね(笑)。で、もちろん、お芝居はとても楽しめた~設定はむろん異なりはするが『白痴』でドストエフスキーが省いた部分、ナスターシャ・フィリーポプナ、ラゴージン、ムイシュキンの空白の三角関係を唐氏が独創的観点と想像力で描いたのだろうか?と思わせるほど、豊かで優れていた。柄本さんは素晴らしい。今回は出番こそそう多くはなかったが、役者の存在性=磁場とは、いったい如何なるものなのかと、ついつい、見ていて思ってしまう・・。
  • 『アラビアのロレンス』(1.17)  DVDで持っているデジタルリマスター版が昔IMAXだった高島屋の劇場でやっているので見に行く。DVDでは気が付かなかった箇所がいくつかあった。このシーンはブローアップだったか、とか、ここは悩んだろうナとか、デビッド・リーンの視点をなぞるように見ることができた。もう一度みたい。そして、アリの登場シーン、ロレンスが砂漠の遠い彼方から生きて戻ってくる、一連の「蜃気楼」シーンは本当に圧巻。映画の力とはまさにあれなんだ!
  • エイミー・グッゲンハイム(1.17)  イメージフォーラムの誘いで来日中のNYのインディペンデント映像作家エイミー・グッゲンハイム氏の講演/懇親会に参加。久しぶりに映像作家/ダンサーの万城目さんに遭遇。『吸血』の話も少々。グッゲンハイム氏の未来の長編作品が今から楽しみ。終了後、『吸血』運営委員リーダーの中山氏と渋谷で軽くギネスを一杯。
  • 『アレキサンダー大王』(1.18)  北千住でアンゲロプロスの『アレキサンダー大王』がやるというのでこれは絶対に行かねばと勇んで行くはずが、どうも天候の具合のせいか、眠い。最初から眠い。で、思ったとおり3回睡魔襲来。しかし4時間近い映画のほんの数分であること間違いなし(笑)。作品は普段の詩的幻想自然主義的映像(!)というよりも、ギリシャの政治情勢の比喩、揶揄のようなブラックでユーモアのあるものだった。予想していたものとまったく違ってたけど(史劇スペクタクルと思っていた)、アレキサンダー大王を象徴として突っ込んでいく発想はそのまま日本の天皇制に転換できるのかもしれない。 会場だった芸術センターは初めて黒テントの劇中映像をやった『絶対飛行機』のテント会場のその後の姿であった(!)。 会場にいた企画運営主任の女性が偶然、中山の映画美学校の同期生でびっくり、しかも『絶対~』とほぼ同時期にオレも中山の家で開いた上映会でその人に会ったことがあるということも判明。 やはり狭い業界。悪いことできないネ・・(笑)